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紺色の暖簾に『ひょっとこ』と筆文字で書かれた居酒屋では、サラリーマンや、OL 、近所のおじさんたちでにぎわいを見せていた。個室の一室で、上司と部下である2人が瓶ビールを注ぎ合っていた。
「あ、すいません。ありがとうございます」
「ほら、枝豆も食いな。糖質の吸収をやわらげるらしいぞ。いつかのテレビでやってたな」
「そうなんすか。食べておきます」
颯太は、塩ゆでされた枝豆をつまみながら、ジョッキビールを飲んだ。
「ほんと、今は、何でもレスだよなぁ。キャッシュレス、セックスレス、ストレス……なんつって……。ほら、ちょっと前になんだっけ。あなたがしてくれだとかくれないだとかのドラマやってなかったっけ」
会社の上司である総務部長の五十嵐は、お店のメニューに書かれた『キャッスレス決済できます』の文字を見て言う。
肘をつきながら、ひゃっくりをして、枝豆を次々とつまんだ。
「あー、ありましたね。そんな、ドラマ。見てないですけど、CMでチラッと
見て知ってました。部長、まさか、そのドラマ見てたんですか?」
「いや、ほら、家の嫁がね。出てる俳優さん好きなんだってさ。仕方ないから一緒に見るんだけど。見るに耐えないよな。
夫の俺、そばにいるっつぅのに……」
「あー、あれは、1人で見る感じじゃないすか? 内容的に、2人で見るのは……。気まずいっすよね」
「だよなぁ、俺もそう思うけど。見ちゃうよね。嫁と共有したいからさ。お前んとこは最近どうなん?」
ビールを飲み干しては、手を挙げて店員を呼んでいる。
「ビール追加ね! ほら、上原は、何飲むの?」
「えっと、んじゃ、ハイボールで」
「シャレてるの飲むのね。んじゃ、ビールとハイボールね」
「はい、かしこまりました」
店員は、伝票にメモしては、居酒屋の店長にオーダーしていた。
「んで?」
「ああ、すいません。聞いてませんでした」
頬を赤くして、ビールジョッキに手を添えたまま、かたまる。今日は、いつもより酔いのまわりが早い。
「だから、お前は嫁さんどうなんよ?」
「……あれ、言ってませんでしたっけ。単身赴任してるって。
地元のパン屋に嫁と嫁の両親いますから、俺は1人、会社で用意してくれた
アパート住んで、通勤してるんすよ。帰ったって、誰もいませんよ。むしろ……実家帰っても居場所
なんてありませんけど」
「うあ?! 上原って単身赴任だったの? 知らなかったぁ。てっきり、こっちに家族で住んでるものだと
思ってた。でも、いいじゃないの? お互いの嫌なところ見えないじゃんね。靴下投げぱなしーとか、汗臭いから風呂入れとか、休みの日なんてゴロゴロするなとか嫁さんに言われなくて済むだろ。独身と変わりない生活でうらやましいな」
「……うらやましいって思うんですね。好きでこうなったわけじゃないんですけど」
「え? そうなん?」
「本当は、一緒に来てほしいってお願いしたら、子供を転校させたら、かわいそうだの、パン屋以外の仕事は、私には無理とか、主婦なんてなおさら!とか言われたら、1人で行くしかないじゃないですか」
「え?! 子供もいんの? 何歳よ?」
「えっと……、何歳だっけ。確か、今、2年生だったかなぁ」
「2年ってことは、7歳? お前、ちょっと待てよ。
26じゃなかったっけ? なになに、学生結婚? 大学生の時に結婚したわけ?」
五十嵐の酔いが一気にさめた。体とビールジョッキをずずいと前に乗り出して聞き出す。
「え、ええ、まぁ。そんなとこですけど。それも不本意というか……」
「マジかぁ。いやぁ、そんなプライベート聞いたことないからさ。今聞いてびっくりしたわ。ヘッドハンティングされて優秀な社員が異動してくるからって本部から言われて蓋開けてみたらそんな事情があったのね。あー、そっか。上原は、仕事を選んでしまったわけね。家族を置いて、仕事か。てかさ、寂しくないの? 毎日、帰って1人なんだろ?」
運ばれてきた追加のビールとハイボール、そして、最初に注文していた熱々の鳥のから揚げが置かれた。
さっと、颯太は、脇のレモンをから揚げにぎゅっと絞った。
「もう慣れましたよ。1人で過ごすのも。時々、子供からのテレビ電話とか
あったりしますけど、寝落ちしてることが多いので、電話に出られなくて、会うと子供に怒られることが大半です。
嫁に内緒で夜中に電話が来るんですよ。それが可愛いんですけどね。
どんだけ俺が嫌われてるんだか……」
「あー……。そばにいないってそういうこともあるんだなぁ。俺にはわからない次元だなぁ。
悲しいなぁ。お前、それで幸せなのか?」
五十嵐は颯太の肩を組む。
「仕事は楽しいですけどね。与えられるミッションに応えていく感じでゲームみたいじゃないですか。忙しい方が好きなんです、俺。でも、帰った後の喪失感。家の部屋の扉を開けた瞬間に氷のように寂しさを感じるんす。
部屋の中が冷蔵庫かってくらいで……。五十嵐の目から涙が出る。颯太の頭をワシャシャとかきむしる。
「そうかそうか。今度、湯たんぽ買ってやるからな。まだ、冬じゃないけど。まぁまぁ、今日は、飲め飲め。無理のない範囲で俺がおごってやるから」
五十嵐は、テーブルの脇にあったメニュー表を颯太の前に差し出した。手を挙げて、店員を呼ぶ。
「それはありがたい。ゴチになります」
カクテルや、ワイン、日本酒、麦焼酎などお酒のほかに、つまみも選んだ。枝豆と冷ややっこ、たこわさび、鳥軟骨のから揚げ、モツの煮込み、焼き鳥のミックスをこれ見よがしに頼んだ。
おごりと聞いて、目を光らせていた。
単身赴任は、独身ではない。
いくら会社アパートで家賃は安くても光熱費や家族を養うためのお金もあるため、自由に使えるお金は少ないものだ。
自由な時間はあっても贅沢はできないものだ。
それでも、ここにいる理由はある。心から安心して過ごせる居場所だ。離れていることで家族として成り立つこともあると信じたいが、長く生活して、本当にこれで良かったのかと自問自答を繰り返す。
午前2時まで、部長と五十嵐と居酒屋で飲み明かした後、路上をフラフラと歩いて、真夜中に煌々と光る公園の自動販売機が見えて横のベンチに座る女性がいると気づいていた。
こんな時間に座っているなんてと半ばドキドキしながら、近づく。
気づいてないふりしながら、声をかけた。
美羽に会って、毎日、1人で過ごす夜が潤った気がした瞬間だ。
上原 颯太。単身赴任している既婚者だ。
それを美羽が知るのは後々になってからだった。