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逃げれば逃げるほど、深く絡みついてくる。



まるで、重い霧が足元にまとわりついて離れないような感覚を、直弥はここ数日、何度も味わっていた。



家の鍵を閉めた後、何度もドアノブを引いて確認する癖がついた。

窓の施錠も、浴室のカーテンの向こうも、ベランダの隅まで何度も見直した。

けれど、どれだけ確認しても、心の奥で“見られている”という感覚は消えてくれなかった。



メッセージはぱったりと届かなくなった。

だがその沈黙が、かえって重苦しい恐怖を孕んでいた。



SNSを開く。

無意識に匿名アカウントの投稿を探す自分に気づき、眉をひそめる。



その投稿は、まるで直弥の日常を誰かが実況しているようだった。



《今日、疲れてるみたいだね。右目だけ、少し充血してるよ》



スマホの画面を見つめる視線が凍りついた。

ピクリと指が震え、そのまま端末をテーブルに落とした。

軽い音が響く。



(……どこから、見てる?)



鏡の中の自分を思い出す。

朝、鏡を覗き込んだとき、確かに右目が少し赤くなっていた。

化粧で隠すほどではなかったが、それを見抜けるほど近くに――誰かがいるのか?



心臓が速く打ち始めた。



まるで、皮膚のすぐ外側に永玖の目があるかのようだった。



部屋の隅に、影はないか。

天井の隅、クローゼットの裏、キッチンの下、ベランダの奥――視線を這わせながら、直弥は無意識に息をひそめる。



カーテンの隙間から灰色の空が覗いていた。

雲が低く垂れこめていて、街全体がくすんだ薄闇に沈んでいる。

窓ガラスをつたう雨粒は、まるで誰かの涙のように静かに滑り落ち、線を描いては消えていった。



雨音が一定のリズムで耳に入り続ける。



その規則的な響きが、不安を逆なでしていた。



一人でいるはずの部屋なのに、空気が妙に重い。

肌を撫でるような湿気の中に、まるで誰かの吐息が混じっているように思えてならなかった。



──だが、直弥を最も戦慄させたのは。



(……もう、慣れてきてる)



という、自己認識だった。



“見られている”という恐怖が、いつしか“見られていないと落ち着かない”という依存へと変質し始めていた。



ソファに座ったまま、何度もスマホを手に取っては、置き、また拾い上げる。



無言の通知欄を開いては閉じ、彼の名前を思い浮かべるたび、心の奥に微かな温度が生まれるのを感じた。



(永玖……)



その名を、心の中で呟くたび、どこかで冷たいものが背筋を這った。



拒絶したはずだった。

気持ち悪いと、何度も叫んだはずだった。



なのに。



――その夜。



直弥は、夢の中で永玖の声を聞いた。



『……直弥。君は、もう僕のものだよ』



その声に、目を覚ました。



空気が異様に湿っていた。

汗でパジャマが肌に貼りついて気持ち悪い。



時計を見ると、午前1時23分。



カーテンの隙間から覗いた空は、真っ黒な雲が重く広がっていた。

その合間から稲光が走り、一瞬だけ部屋が白く照らされた。



その光の中で、何かが動いたように錯覚し、直弥は凍りついた。



そして――



インターフォンが鳴った。



乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。



(……今の時間に、誰が?)



血の気が引く。



まさか、と心の中で誰かが呟く。

だが、「まさか」の先にある人物は、たった一人しかいなかった。



玄関までの数メートルが、永遠のように遠かった。

裸足の足音がフローリングを叩くたび、緊張が高まっていく。



ゆっくりと、覗き穴を覗く。



いた。



永玖だった。



傘もささずにずぶ濡れで、直弥の部屋の前に立っていた。

髪から雫が滴り落ち、Tシャツが体に張りついていた。

にもかかわらず、その顔は、まるで晴れた日常の中で出会ったような穏やかさに満ちていた。



微笑んでいる。



直弥の心臓が、ゆっくりと痛みを増していった。



「なおや」



「……どうして」



「……ずっと、君に会いたかった」



永玖の声は、酷く静かで、壊れそうに柔らかかった。



まるで夢の中の囁きのようだった。



彼が一歩、足を踏み入れようとする。



反射的に直弥は後ずさる。



「来ないで……!」



声が裏返った。



「もう、怖がらなくていい。君の全部、僕が受け止める。守るから。……もう、どこにも行かせない」



その言葉の中に、甘さと狂気が同居していた。



直弥の中で、何かが静かに、崩れ落ちた。



あれほど怖がっていたのに。



あれほど逃げたはずだったのに。



(誰も助けてくれないなら――)



(こんなにも求めてくれる存在が、いるのなら)



唇が震えながら、ゆっくりと開かれる。



「……いいよ」



永玖の目が、わずかに揺れた。

次の瞬間、微かに目を見開く。



「お前のものでも……いいよ、えいく」


静かに、雷鳴が再び遠くで鳴った。

窓の外では、雨が風にあおられて激しさを増していた。



それでも、玄関先に立つふたりの間には、異様な静寂が満ちていた。



永玖はゆっくりと手を伸ばし、直弥の頬に触れた。



その手は、あまりにも温かくて――その温度に、直弥は一瞬だけ泣きそうになった。



「……よかった」



その言葉は、まるでずっと欲しかった救いのように響いた。



永玖が直弥を抱きしめた。



抵抗しようとして、できなかった。



身体の力が抜けていく。



逃げて、疲れて、誰にも気づかれなくて。



ようやく差し出された手に、身を預けてしまった。



(これが、幸せじゃなくても……誰にも見捨てられるよりは、マシだ)



心の奥に沈んでいた、もう一人の自分がそう囁いた。



「……えいく」



「なに?」



「……ずっと、見ててね」



「もちろん。なおやは……僕のすべてだから」



雨が窓を打ち続けている。



その音の中で、ふたりはゆっくりと、夜の深みへと沈んでいった。



まるで、外の世界がもう存在しないかのように。



――この部屋だけが、二人の世界だった。



永遠に、終わらない夜の中で。






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