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一つ一つの言葉が意味が深くて最高👍🥹
逃げれば逃げるほど、深く絡みついてくる。
まるで、重い霧が足元にまとわりついて離れないような感覚を、直弥はここ数日、何度も味わっていた。
家の鍵を閉めた後、何度もドアノブを引いて確認する癖がついた。
窓の施錠も、浴室のカーテンの向こうも、ベランダの隅まで何度も見直した。
けれど、どれだけ確認しても、心の奥で“見られている”という感覚は消えてくれなかった。
メッセージはぱったりと届かなくなった。
だがその沈黙が、かえって重苦しい恐怖を孕んでいた。
SNSを開く。
無意識に匿名アカウントの投稿を探す自分に気づき、眉をひそめる。
その投稿は、まるで直弥の日常を誰かが実況しているようだった。
《今日、疲れてるみたいだね。右目だけ、少し充血してるよ》
スマホの画面を見つめる視線が凍りついた。
ピクリと指が震え、そのまま端末をテーブルに落とした。
軽い音が響く。
(……どこから、見てる?)
鏡の中の自分を思い出す。
朝、鏡を覗き込んだとき、確かに右目が少し赤くなっていた。
化粧で隠すほどではなかったが、それを見抜けるほど近くに――誰かがいるのか?
心臓が速く打ち始めた。
まるで、皮膚のすぐ外側に永玖の目があるかのようだった。
部屋の隅に、影はないか。
天井の隅、クローゼットの裏、キッチンの下、ベランダの奥――視線を這わせながら、直弥は無意識に息をひそめる。
カーテンの隙間から灰色の空が覗いていた。
雲が低く垂れこめていて、街全体がくすんだ薄闇に沈んでいる。
窓ガラスをつたう雨粒は、まるで誰かの涙のように静かに滑り落ち、線を描いては消えていった。
雨音が一定のリズムで耳に入り続ける。
その規則的な響きが、不安を逆なでしていた。
一人でいるはずの部屋なのに、空気が妙に重い。
肌を撫でるような湿気の中に、まるで誰かの吐息が混じっているように思えてならなかった。
──だが、直弥を最も戦慄させたのは。
(……もう、慣れてきてる)
という、自己認識だった。
“見られている”という恐怖が、いつしか“見られていないと落ち着かない”という依存へと変質し始めていた。
ソファに座ったまま、何度もスマホを手に取っては、置き、また拾い上げる。
無言の通知欄を開いては閉じ、彼の名前を思い浮かべるたび、心の奥に微かな温度が生まれるのを感じた。
(永玖……)
その名を、心の中で呟くたび、どこかで冷たいものが背筋を這った。
拒絶したはずだった。
気持ち悪いと、何度も叫んだはずだった。
なのに。
――その夜。
直弥は、夢の中で永玖の声を聞いた。
『……直弥。君は、もう僕のものだよ』
その声に、目を覚ました。
空気が異様に湿っていた。
汗でパジャマが肌に貼りついて気持ち悪い。
時計を見ると、午前1時23分。
カーテンの隙間から覗いた空は、真っ黒な雲が重く広がっていた。
その合間から稲光が走り、一瞬だけ部屋が白く照らされた。
その光の中で、何かが動いたように錯覚し、直弥は凍りついた。
そして――
インターフォンが鳴った。
乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。
(……今の時間に、誰が?)
血の気が引く。
まさか、と心の中で誰かが呟く。
だが、「まさか」の先にある人物は、たった一人しかいなかった。
玄関までの数メートルが、永遠のように遠かった。
裸足の足音がフローリングを叩くたび、緊張が高まっていく。
ゆっくりと、覗き穴を覗く。
いた。
永玖だった。
傘もささずにずぶ濡れで、直弥の部屋の前に立っていた。
髪から雫が滴り落ち、Tシャツが体に張りついていた。
にもかかわらず、その顔は、まるで晴れた日常の中で出会ったような穏やかさに満ちていた。
微笑んでいる。
直弥の心臓が、ゆっくりと痛みを増していった。
「なおや」
「……どうして」
「……ずっと、君に会いたかった」
永玖の声は、酷く静かで、壊れそうに柔らかかった。
まるで夢の中の囁きのようだった。
彼が一歩、足を踏み入れようとする。
反射的に直弥は後ずさる。
「来ないで……!」
声が裏返った。
「もう、怖がらなくていい。君の全部、僕が受け止める。守るから。……もう、どこにも行かせない」
その言葉の中に、甘さと狂気が同居していた。
直弥の中で、何かが静かに、崩れ落ちた。
あれほど怖がっていたのに。
あれほど逃げたはずだったのに。
(誰も助けてくれないなら――)
(こんなにも求めてくれる存在が、いるのなら)
唇が震えながら、ゆっくりと開かれる。
「……いいよ」
永玖の目が、わずかに揺れた。
次の瞬間、微かに目を見開く。
「お前のものでも……いいよ、えいく」
静かに、雷鳴が再び遠くで鳴った。
窓の外では、雨が風にあおられて激しさを増していた。
それでも、玄関先に立つふたりの間には、異様な静寂が満ちていた。
永玖はゆっくりと手を伸ばし、直弥の頬に触れた。
その手は、あまりにも温かくて――その温度に、直弥は一瞬だけ泣きそうになった。
「……よかった」
その言葉は、まるでずっと欲しかった救いのように響いた。
永玖が直弥を抱きしめた。
抵抗しようとして、できなかった。
身体の力が抜けていく。
逃げて、疲れて、誰にも気づかれなくて。
ようやく差し出された手に、身を預けてしまった。
(これが、幸せじゃなくても……誰にも見捨てられるよりは、マシだ)
心の奥に沈んでいた、もう一人の自分がそう囁いた。
「……えいく」
「なに?」
「……ずっと、見ててね」
「もちろん。なおやは……僕のすべてだから」
雨が窓を打ち続けている。
その音の中で、ふたりはゆっくりと、夜の深みへと沈んでいった。
まるで、外の世界がもう存在しないかのように。
――この部屋だけが、二人の世界だった。
永遠に、終わらない夜の中で。