テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
馴染みの居酒屋の個室で、深澤は手持ち無沙汰にグラスのビールを揺らしていた。約束の時間から少し経った頃、控えめなノックの後に、そっとドアが開く。帽子を深く被り、黒いマスクで顔のほとんどを隠した目黒が、所在なさげに立っていた。
「おー、来たか」
深澤が声をかけると、目黒はぺこりと頭を下げて中に入り、対面の席に静かに腰を下ろした。そして、帽子を脱ぐと、力なくテーブルに置き、俯いてしまう。その背中は、普段の堂々とした姿からは想像もつかないほど、小さく丸まって見えた。
深澤は小さくため息をつくと、「まぁ、とりあえず飲めや」と、新しく頼んでおいたビールジョッキを目黒の前に滑らせる。目黒はこくりと頷き、一度はジョッキを手に取ったものの、唇を湿らせただけで、喉を通らないのか、すぐに静かにテーブルに戻してしまった。
その様子に、深澤は核心を突くことにした。
「お前は、どうしたい?」
問いかけに、目黒は答えない。ただ、固く握られた拳が、テーブルの下で微かに震えている。答えられないのだろう。頭の中がぐちゃぐちゃで、言葉にならないのだ。深澤は、もう一度、今度は少しだけ道筋を示すように問いかけた。
「康二に、どう言うべきだと思ってんだ?」
その言葉が、堰を切った。目黒は俯いたまま、ぽつり、ぽつりと、か細い声で話し始めた。
「康二が…朝から、ちょっと顔色悪いなって…思ってたのに…声をかけられなかったんです…。収録のミスも…俺が、ちゃんと台本を読んでおけば…防げたのに…。最初に怒られた時…素直に、全部謝ればよかった…。なのに、俺、自分のことばっかで…」
言葉の節々で、声が震える。
「あいつが…一番、辛かったはずなのに…俺は、一番酷い言葉を…っ…ごめん、なさい…本当に、ごめんなさい…」
何度も何度も、泣きそうな声で謝罪を繰り返す。深澤は、ただ黙って、その言葉のひとつひとつに相槌を打った。否定も肯定もせず、ただ、目黒が吐き出す後悔の全てを受け止める。
話の切れ間で、静寂が訪れた時だった。ぽたり、とテーブルに小さな染みができた。見ると、目黒の頬を、堪えきれなかった涙が静かに濡らしていた。
それを見た瞬間、深澤は何も言わずに席を立ち、目黒の隣へと移動した。そして、その広い背中を、慰めるようにゆっくりとさする。
「お前も、疲れてたんだもんな」
その言葉に、目黒の肩が小さく揺れた。
「…ごめん、なさい…」
「だから、俺に謝ってもしょうがねぇって」
深澤は、諭すように続けた。
「康二、明日には退院できるはずだ。だから、朝一番の面会で行ってやれ。ちゃんと、お前の口から、今の気持ちを全部伝えてやれよ」
「…」
「一人じゃ怖いなら、俺も付き添ってやるから」
兄のような優しい言葉に、目黒はしばらく黙っていたが、やがて、子供が甘えるような、か細い声で呟いた。
「…今日…一人じゃ、寝れそうにないんで…泊めて、ください…」
その予期せぬおねだりに、深澤は思わず「こいつ…」と呆れたように笑ってしまった。しかし、その瞳はどこまでも優しい。
「わーったよ、笑。じゃあ今日は泊まってけ」
その言葉に、目黒は少しだけ安心したように、俯いたまま小さく頷いた。
会計を済ませ、二人で夜道を歩く。少しだけ肌寒い夜風が、火照った目黒の頬には心地よかった。隣を歩く深澤の背中が、今は何よりも大きく、頼もしく見える。
「ふっかさん…ありがとうございます」
「ん?なんか言ったか?」
「…なんでもないです」
同じ屋根の下へ、二つの影が吸い込まれていく。不器用な弟たちのための、長い夜はまだ始まったばかりだ。