テラーノベル
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叶製薬株式会社のエントランスロビー、ソファにその姿があった。エレベーターのランプが一階を示し、中から一人の女性が出て来た。
「よっ!」
「……………よっ」
白いブラウスにグレーのベスト濃灰のタイトスカート、会社の制服を着た木蓮は、多少上品で落ち着いて見えた。
「すげぇな、女に見えるわ」
「あんたも相変わらずギャップ萌えって感じね」
「おまえもな」
「………….で、勤務中に呼び出されるとか、すっごく迷惑なんですけれど!」
「悪ぃ……….連絡方法知らないしな」
「仲人にでも聞けば?」
「そんなん聞けるかよ」
「なんでよ、「婚約者の妹の連絡先を教えて下さい」って聞けばあのクソ禿げ親父が教えてくれるわよ」
「相変わらず酷ぇな」
「これが通常運転ですから!」
やはり雅樹の心は木蓮に傾いていた。この打てば響くテンポの良さ、親しみやすく気軽な雰囲気に癒される。仕事から帰宅した時、迎えてくれる相手は木蓮しか考えられなかった。
「その婚約者の話なんだけど」
「あんた馬鹿なの、この場所でその話する?」
「そうだな。退勤後、何処かで飯でも食おうぜ」
睡蓮の涙が頭を過った。
「あんたと茶も飯もないわ、今度はないってこの前言ったでしょ」
「なら缶コーヒー……….一本だけ付き合えよ」
「………….あんたの奢りなら」
「貧乏くさっ」
睡蓮に「任せなさいよ」と言い切ったものの、木蓮の中にもほんの一欠片だが和田雅樹との心踊る一日が残っていた。もし睡蓮が雅樹に一目惚れしなければ、もし自分も正装で見合いの席に着いていればと「もし、もし」と仮定する自分がいる。
(…………..でも、睡蓮が)
ワークチェアに腰掛けた木蓮は大きなため息を吐いた。
待ち合わせ場所はポプラ並木が続く片側三車線の大通りから右に折れた緑地公園だ。金沢駅発石川県庁行きのバスに乗車、流れる車窓を眺め停留所を三つ過ぎた所で降車ボタンを押した。
<次、停まります>
車内アナウンスに心臓が跳ねた。このままバス停を素通りした方が良いのではないだろうか、これから和田雅樹と缶コーヒーを一本飲む時間すら睡蓮を裏切っているような錯覚に陥る。
(睡蓮との縁談をこのまま進めて欲しい……….そう言うだけよ)
プシュー
バスのタラップを降りるとドウダンツツジの生垣の向こうに夕焼け空が広がった。芝生広場には大型遊具があり、母親と戯れる子どもの姿があった。
(……….これなら二人きりになる事はなさそうね)
ストッキングの踝に芝生の感触が残る。丁度向かいのコンビニエンスストアから白いポリエチレン袋を手に、木蓮が座るベンチへと歩いてくる雅樹の笑顔が見えた。
(呑気なもんだわ)
木蓮は知らない。
「お疲れさん」
雅樹がどれ程までに自身に恋焦がれているか。
「あんたもね」
「無糖、微糖、カフェオレ、紅茶、どれが良い」
「なに…………ドリンクバーでもすんの」
「どれだよ」
「じゃ……….紅茶」
ペットボトルを手渡されたものの、そのキャップを開ける気にはなれなかった。
「それで、話ってなに」
「あ…………..婚約者云々について」
「それが議題なの」
「まぁ、そんな感じかな」
「そんなの簡単よ、睡蓮と結婚すればなんの問題もないわ」
「なんだよそれ」
木蓮はポケットから深紅のヴェネチアンガラスの指輪を取り出しベンチに置いた。
「これは貰えないわ」
「どうして」
「名前が入っているなんて気が付かなかったから受け取ったのよ」
「知らなかったんだ」
「なにがよ」
「まさか出張に行っている間に縁談が進むなんて思ってもいなかった」
「どのみち睡蓮が選ばれていたわよ」
「なぜ」
「和田家に相応しいからよ」
膝に片肘を突いた雅樹は眉間に皺を寄せてため息を吐いた。
「おまえまでそれかよ、相応しい、相応しい、なにが相応しいんだよ!俺の気持ちはどうなるんだ!」
「そんな大きな声出さないでよ」
雅樹の怒鳴り声に子どもは怯え、母親の手を引いて公園を後にした。
(…………..二人きりになっちゃったじゃない)
木蓮はベンチから離れると大型遊具のブランコに腰を下ろした。パンプスで地面を蹴り上げ、両腕を前後に揺らした。
「おい、木蓮、危ないぞ」
「こんなの平気よ!」
それは高く、飛んで行ってしまうのではないかと思える程の速さで空を仰いだ。睡蓮の事がなければ、家柄の事がなければ、そう考えると胸が熱くなった。
「おい、良い加減にしろよ!おまえもう子どもじゃないんだぞ!」
「どういう意味よ!」
「おまえ泰山木から落ちたんだろ!」
「知ってたの!」
「その歳でブランコから落ちたとか洒落になんねぇぞ!」
「………….そうよ!こんなガサツな女が和田の嫁になれる筈ないじゃない!」
その時、面持ちが変わった雅樹の手がブランコの鎖を強く握り締め、危うく木蓮は前のめりに二枚の板から落ちそうになった。
「ちょっ、危ないじゃ……….!」
一瞬の出来事だった。屈み込んだ雅樹が木蓮の唇に口付けた。何が起こったのか訳が分からなかった木蓮は顔を赤らめてブランコから立ち上がった。
「な……….なに考えてんのよ!」
「俺は木蓮と結婚したい!睡蓮じゃない!おまえが良いんだよ!」
「そんなの誰も許さない!」
「許さなくても良い!」
「睡蓮を裏切るなんて出来ない!」
「おまえ、本当はどうしたいんだよ!」
「分からない!」
ベンチのショルダーバッグを手に取ると大通りに向かって走った。
「おい!待てって!」
「紅茶、ごちそうさま!」
木蓮は街を流すタクシーに手を挙げ後部座席へと乗り込んだ。ベンチに置き去りにした深紅の指輪、和田雅樹を突き離すつもりがそれは脆くも崩れた。
(………….どうしたら良いの)
木蓮の心はブランコの様に揺らぎ始めた。