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紅林國保は、日々の些細な出来事を日記にしたためて、それを読み返す事もなく、35年の歳月を過ごしていた。警察官の職を辞してから始めたこの習慣は、紅林の荒々しい気質を和らげ、表情をも柔和にさせた。
そんな紅林が終の棲家に選んだ場所は、北海道の小樽市であった。
ちいさな土地を退職金を叩いて買い上げて、自給自足の生活を営んでいる。
不便は感じなかった。
北海道の暮らしを決断させたのは妻の瑞穂で、当初はふたりだけでそれなりに仕合わせに暮らしてはいたが、瑞穂は5年前の春に流行り病で死んだ。
「都心はゴリゴリ。出世とか世間体とかどうでも良いじゃない。せめて最期くらいは大自然に囲まれながら、あなたとふたりきり。若い頃みたいに生活したって罰は当たらないんじゃないのかしら?」
「それもそうだな、何人も刑務所にぶち込んだんだ。いろんな奴らに恨まれているのは確かだよ。ひどい取り調べもしたもんだ。これは墓場まで持っていくけどなあ。このままじゃあ俺なんてきっと地獄行きだよ」
「そおなのかしら?だけど、あなたのお陰で救われた人だっているはずだわ。大丈夫、あなたが地獄へ行くのなら、きっと私だって地獄行きよ。だって共犯者だもの」
「早いうちに六文銭を用意しとかなきゃな」
瑞穂と歩んだ遠い日の思い出が、ありありと脳裏に浮かんでは消えていく。
声、仕草、癖、温もり、肌の匂い、髪の手触り。
好んで使っていた懐中時計、使い古したミシン、顔のわりに大きすぎた老眼鏡、最期まで慣れることのなかったスマートフォン。
手を触れることも出来なかった、隔離病棟の瑞穂の寝顔。
別れも告げられずに火葬されたその骨は、純白に輝いてさらさらと砕け落ちていった。
紅林は気を取り直そうと、ひとり息子から卒寿祝いで貰った13インチのタブレットを開いて、電子新聞を読み始めた。
慣れない操作に手間取りながらも、紅林はこの最新機種を重宝していた。
指先ひとつで拡大出来る画面は、日に日に衰える視力を補ってくれるからだ。
社会面のトップは、里見丈太郎氏の不可解な死因に関する記事で溢れ、神奈川県警多摩北警察署時代に扱った事件が、否が応でも紅林の記憶を揺さぶる。
昭和35年。
紅林は、児玉詩織の取り調べを担当していた。