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第二十四話:雲華の埋葬と、泥濘の抱擁
「……ひゃあ。霰様、そんなに冷たくしちゃ、あるじ様の命の火が消えちゃうよ……?」
凍てついた屋根裏の床板が、長い年月に耐えかねた巨木が内側から腐り落ちるように、音もなく崩落した。そこから溢れ出したのは、冬の静寂を塗り潰すほどに重く甘ったるい線香の香りと、数千年の間、一度も太陽の光を浴びたことのない古い湿った土の匂いを孕んだ、不気味な桃色の霧だった。
「……雲華か。地下の肥溜めで、大人しく順番を待っていればいいものを」
霰が不快げに目を細め、僕の胸元に置いていた手を離そうとした、その刹那のことだった。
崩れた床の闇、光さえ届かぬ深淵から伸びてきたのは、死人のように白く、けれど不思議な生気を湛えた柔らかな腕だった。その指先が僕の右足首を優しく、けれど一度捕らえた魂は決して逃がさない万力のような力強さで捕縛する。
「だめだよぉ。あるじ様の心臓の音が、こんなに苦しそうに、バラバラに鳴ってるんだもん……。天の上や雪の上は、あるじ様には眩しすぎるの。私が、土の中で静かに、誰にも邪魔されないように休ませてあげなきゃ……ね?」
霧の中から、重力に逆らうように這い上がってきたのは、キョンシーの雲華
彼女の肌は極上の陶器のように滑らかで、死者特有の冷たさを持ちながらも、その瞳は空虚な闇の中に「生」への凄まじい執着を爛々と輝かせている。彼女は、霰が僕を凍結させていた氷の枷ごと、泥棒が宝物を掠め取るように鮮やかに僕を抱き寄せると、そのまま床下に開いた、底の見えない深淵の穴へと僕を引きずり込んだ。
辿り着いたのは、朧月館の直下、隠り世の地脈が交差する禁忌の地。数万の蓮が怪しく燐光を放ち、生気と死気が泥濘の中で混ざり合う「忘却の霊池」だった。
湿り気を帯びた重い空気と、五感を内側から腐らせるほど濃厚な花の香気が漂うこの場所で、僕は瑞々しい蓮の花弁を厚く敷き詰めた、さながら棺のような祭壇の上に横たえられた。
「……あ、は……、はぁ……っ、う……」
左腕には紅羽の「熱い陶酔」を刻む銀の腕輪が脈打ち、右腕には霰の「凍てつく服従」を強いる水晶の腕輪が神経を凍らせる。相反する二つの極端な霊力に、僕の神経系はすでに限界を超えて悲鳴を上げ、意識は混濁の極みにあった。そんな無防備な僕の姿を、雲華はまるで手に入れたばかりの愛玩人形を愛でるように慈しげに見つめ、冷たい指先で僕の右足に触れた。
「ねえ、あるじ様。そんなに重いもの二つも着けられて、疲れちゃったでしょ? 右も左も、空も前も、全部うるさくて疲れちゃうよね……。だから、私がもっと楽になれる『本当の重石』をあげるからね……」
彼女が懐から取り出したのは、地の底で数千年、死者の魂が二度と現世に戻らぬよう鎮めるために守り抜かれてきた一族の至宝――『黄泉の定礎』
それは、深淵の闇そのものを切り取って磨き上げたような、一点の曇りもない黒曜石のアンクレットだった。表面には死者の魂を肉体に縛り付け、大地との契約を結ぶための禁忌の術式が鮮やかな金泥で描かれ、闇の中で不気味に、そして真新しく輝いている。
「これを着ければ、もうどこにも行かなくていいんだよ? 空も、雪原も、あるじ様には広すぎるもの。ずっと私と一緒に、暗くて温かい土の中で眠っていられるの……。もう、歩く必要なんてないんだよ?」
「やめろ……足まで、縛られてたまるか……っ。離せ、離してくれ……!」
僕が残された力を振り絞り、泥の中に沈みゆく足を引こうとしたが、黒曜石の呪具が近づくにつれ、僕の右足はまるで鉄の塊に変わったかのように重くなり、感覚が麻痺していく。雲華は恍惚とした笑みを浮かべ、抗う僕の足首を愛おしげに撫でまわした後、その「枷」を容赦なく押し当てた。
カチリ、と重厚で、魂の最奥にまで響くような、逃れられぬ運命を確定させる封印の音が響いた。
「っ……ああああああああああ……ッ!!」
僕の右足首に黒曜石の絶大な重みが加わった瞬間、地面から這い上がってきた無数の不可視の腕が、僕の魂を大地へと、冥府の底へと直接釘付けにするような強烈な「超重力」を放った。
立ち上がることはおろか、指先一つ動かそうとする意志そのものが、黒曜石の闇に吸い込まれて消えていく。
左腕は紅羽の呪いで熱狂し、右腕は霰の呪いで沈黙し、そして右足は雲華の呪いで地底へと沈み込んでいく。
三色の角は、もはや正常な明滅を繰り返すことすらできず、三方向から押し寄せる呪いが交差する「快楽と絶望の渦」の中心で、ドロドロに淀んだ光を放つのみだ。
「ふふ、素敵……。紅羽様の熱も、霰様の寒さも、私の土の中なら全部まぜこぜにして、あるじ様を動かない『人形』にしてあげられる。あるじ様は、ただ私の腕の中で、ゆっくりと、幸せに腐りゆく夢を見ていればいいの……。外の世界なんて、もういらないでしょ?」
雲華は僕の上に覆い被さり、冷たい胸元に僕の顔を強引に押し付けた。
三つの家宝が僕の全身を物理的にも霊的にも分断し、あるじとしての尊厳を、愛という名の「埋葬」の中に深く、深く沈めていく。
地上では、瑞稀が「随分と深く埋められちゃったわね、可哀想に。でも、それもまた乙なものよ」と扇を広げて嘲笑い、伊吹が「地べた這いつくばってんじゃねえぞ! さっさと上がってきやがれ、ぶち殺して連れ戻してやる!」と地胆駄を踏んで宿全体を震わせている。
三つの家宝。三人の執着。
僕は、逃げ場のない快楽の泥濘の中で、ただ雲華の死の香りを浴び続けるしかなかった。