服が擦れるような音と、パタンと抽斗が閉まる音。そして何かに悩むような、年若い声が聞こえた。
中也は物音に近い其れに、朝起こされた。
「っ………」
ゆっくりと躰を起こす。
傍らにあった温もりが消えていて、代わりに一着の外套があった。
「何だァ…?」
ぼやけている視界を鮮明にする為、ゴシゴシと中也は目を擦る。
「あっ…中也おはよ〜」
目よりも耳に聞こえた其れに、中也は一瞬呼吸を忘れた。
「昨日はよく眠れたかい?」
其処には襯衣一枚姿の太宰が居た。
「なんつー格好してンだ手前、風邪引くぞ」
「だって私が着れる服がないんだもの…」
中也はベットから離れ、太宰が荒らした抽斗の中を見る。
「あー…お前俺より小せェからなぁ」
其の言葉で、太宰が一瞬でしかめっ面になった。
「丁度手前のサイズはね───ゲシっ!!
後ろから太宰が中也を蹴る。
「何すンだよ!」
「中也が悪い」ふいっと太宰は顔をそらしながら云った。
「はぁ……?」中也は溜め息混じりの声で、抽斗を閉じながら云う。
「っーか手前、着る服ないって云ってるけどその下如何なってンだよ」
「勿論何も履いてないけど?」
「…………」サラリと告げられた其の言葉に、中也は思わず倒れそうになった。
一呼吸おいて。
「よし判った、服買いに行くぞ」
「いってらっしゃい〜」太宰は満身の笑みでヒラヒラと手をふる。
「手前も行くンだよ!!」
「こんな格好で行けるわけないでしょ」
手を横に広げながら太宰は云う。それに中也は舌打ちをして、「いいか?犬でも待ては出来る。絶対ェ家から出るなよ」
「私を犬と一緒にしないでもらいたいね」
「ンじゃあ普通に留守番してろ」
「はいはい……」
中也は寝間着から襯衣に着替え、ズボンを履く。
視線を太宰に移す。彼は笑顔を浮かべて、ヒラヒラと手を振っていた。
帽子を頭にかぶった中也は太宰から視線を外し、玄関の扉を開けた。
***
「却説……」
太宰は溜め息に近い息を吐く。
“或る場所”から銃を手に取った。
子供の姿だからだろうか、銃を握った瞬間重たく感じ、現に太宰は両手で銃を持っている。
横へと視線を移す。
散らかった服を極力避けながら、太宰はバルコニーの方へと向かった。
まだ深夜に近い朝である。
朝日が差し込むカーテンを少し開け、バルコニーへと這入る。
向かいのビルの屋上には人影があった。朝日を反射させるスコープは、中也の後ろ姿を捉えていた。
「射程距離ギリギリってとこかな……」太宰が銃口をその人影に向ける。
発泡。
そして命中した。
小さな悲鳴があがる。
「君達の狙いは私だろう?」
「勝手に標的を変えるなんて……詰まらないじゃあないか」
銃声が静かな朝に鳴り響いた。中也が気付くのは当たり前だ。
こんなに静かな朝なのだから。
***
中也は銃声が聞こえた瞬間、顔をしかめ、バルコニーの方を見た。
其処には未だ銃口を倒れた人影に向けた儘の太宰が立っている。
遠くの所為かよく見えなかったが、太宰が一瞬中也に視線を寄越し、薄く笑みを浮かべたような気がした。
中也は太宰から視線を外し、歩き始める。太宰に云った通り、子供用の服を買う為だ。
然し既に中也は決めていた。
太宰に何故生け捕りをせずに撃ったのか。
それはお前が導き出した本当の最適解だったのか。
そう問いただす事を。
***
太宰は中也を見ていた。自分に背を向けて歩いて行っている中也を。
中也が考えている事を太宰は予想していた。
それに対する説明も、太宰は確り用意していた。
実際にあるのだ。生け捕りにせずに、太宰があの人影────敵組織の人間を殺した理由が。
きっと中也は帰ってきた直後に、太宰に問いただすだろう。
それは太宰にとっては予測済みだった。
然し、太宰は説明は確り用意していても、中也に凡ては云わない。
上手く事を進める為には、そうするしかないからだ。
何故なら彼は────太宰の護衛なのだから。
***
「買って来たぞ青鯖野郎」
「お帰り、蛞蝓のくせに意外と速かったじゃあないか」
空気に亀裂が走る。
然しこの二人の関係に慣れる者にとっては、この云い合いが挨拶のように感じられる。
「ほらよ、疾く着替えろ」中也が太宰に、服が入った紙袋を渡す。
「はいはいご苦労さん」太宰は態と棒読みでかつ上から目線で、中也を煽りながら紙袋を受け取った。
これも何時もの事だった。
何故なら太宰は中也の堪忍袋の緒が切れるのに、どれほど時間がかかるのか。まるで新しい玩具を使い始めるような感覚で、太宰は待ち遠しそうに、愉しんでいるのだ。
「あっ、そうだ中也。この銃返すよ」
先程バルコニーから発砲した銃を、太宰は中也に返す。
「矢っ張り俺の盗ってやがったか…」
「弾補充しときなよ☆」
「ちっと黙ってろ手前…それ以上云ったら重力で潰すぞ」
「それは勘弁してほしいねぇ……私は痛いのも苦しいのも嫌いだ」
「そう簡単に楽して死ねる方法なんてねェよ」
「………そう」
(実際はあるくせに……)
太宰が中也が買ってきた服の、最後の釦を止める。
「うわっ…矢っ張中也の趣味悪いね」
「黙って着てろクソガキ」
「私この躰の年齢十歳だけど、君とはほんの少ししか身長の差が無いけどねぇ」
「十糎以上あるけどな」
「一寸静かにしててくんない帽子置き場」
「そりゃあ此方のセリフだ包帯野郎」
中也が云った通り、太宰の腕や足、首には包帯が巻かれている。
「あっそうだ。そろそろ国木田君から電話がかかってくる頃かな……」
後ろを向き、太宰はベッドの方に歩み寄る。
「あぁ、彼奴か…」中也も太宰に続く。
ベットの上には太宰の携帯電話が置いてあった。
刹那、着信音が鳴り響く。
太宰は携帯を開きながら手を喉に触れ、小さく咳払いをした。
『太宰イィィ!!出社時間をとうに過ぎているぞ!何処で何をしている!!!』
怒声が携帯から鳴り響いた。
「国木田君おっはよ〜!」
少し誂うように抑揚がついた弾んだ声で、太宰は云う。何時もの声だった。
そう、太宰は自分の声色を変えたのだ。
「いや〜申し訳ないんだけど、一寸今日から二 三日くらい仕事に行けなさそうでさ〜」
太宰が申し訳無さそうに云う。然し誰もが巫山戯て聞こえていた。
もし何時もとは違って、真面目な声で答えたら、相手だって何かがあったのだと瞬時に判る。だから太宰は敢えて“何時も通り”の口調で云った。
探偵社の人間が、この事件に関わらないよう牽制する為に。
「休暇貰っていい〜?」
『駄目に決まっているだろう!日頃から遅刻やらサボりやら無断欠席しているくせに──』
「そういう訳だから社長に宜しくね♪」
太宰はそう云って携帯から耳を離し、ピッと釦を押す。
「いいのか?無断欠席だろ」
「いいよ、それより中也」太宰が中也と視線を合わせる。
「お腹空いた、朝ご飯作って♡」
その太宰の言葉に中也は一瞬顔をしかめたが、小さく溜め息をついて「チッ…判ったよ、先テーブルに座ってろ」
太宰は予測していた。中也はお人好しだから。こう云えばあの返事が帰ってくる事も。
それでも、矢張り予測通りに行った事と、彼が変わらず優しい事に、太宰は嬉しそうに微笑んだ。