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「ねえ。どうして三田くんは、面白くもないときにも笑っているの?」
単刀直入に切り込まれ、言葉をなくすものの、笑みを崩さない。「どうだろう……ぼくのこころの何割かは、普通に面白いと思っているんだよ……本当に。だから、きみの言っていることは正しい。けども、ぼくは、自分に嘘をつかない主義なんだ……」
中学一年生のときだった。
小学校からのドラスティックな変化に戸惑いつつも、制服あり校則が厳しい――規律や統制を重んじる空気に馴染みつつあった時期に、女子に話しかけられた。
菅生(すがお)智子(ともこ)。マチュアで、綺麗な女の子だった。
要するに――その言葉だけで射抜かれたのだと思う。単純なぼくは。
「三田くんって本当……面白いね」ころころと鈴のように笑う、その愛くるしい笑顔を見せつけられたときに。
――面白い。最高の褒め言葉だと思った。何故ならおれは、それまで、自分のことを『つまらない』人間だと感じていたからだ。
一言で言えば、Yesマン。誰の言うことも聞く……平凡な優等生。誰の悪口も言わない、滅多に毒も吐かない、面白みのない人物。
教室の窓際で笑っていた智子の姿を、ぼくはいまでもまざまざと思いだされる。青春の真っただ中であっただけにそれは――鮮烈で。強烈だった。
長い髪を揺らし、白い肌が、暴力的なまでにぼくの網膜を刺激する。世界一、セーラー服の似合う女の子だと思った。半袖の下から覗く腕が伸びやかで――美しく。
いままで、女の子は、物で想いを伝えるか……遠目に見守るかの、どちらかだった。直接ぼくのおかしなところを伝える女の子は皆無――だった。だから、なおのことインパクトに残った。
それからおれは……クラスのヒエラルキーの頂点に君臨しつつも、その一方で、教室の隅っこで、いつも絵描きをしている地味な男に、積極的に絡みに行った。ぼくが相手しなければ、誰も友達にならないような地味ぃーな男。一言で言えば、クラスの底辺に位置する、しがない男。
名前は、隅田(すみだ)琢朗(たくろう)。いつも鉛筆と白い紙を持ち歩く、ガリガリで線の細い、いかにも絵師らしい風貌の男だった。
隅田は、おれがいないと誰とも喋れないようなやつだから、積極的に輪のなかに引っ張り込んだ。声もぼそぼそとして気弱な野郎で。そいつがいじめられそうになったときに、おれが、そいつを救いだした場面もあった。
段々――水を与えられた花のように、琢朗は自分の意志を取り戻した。けれど、
「なあ、琢朗。んなところで絵ぇ描いてないて、こっちで一緒に喋ろうぜー」
「いや。ぼくは、いい……」
無理に輪のなかに入ろうとはせず、教室の隅で、相変わらず絵を描き続けるそのさまは……本物の画家を見ているかのようだった。琢朗の目は真剣で、鬼気迫るものがあった。
琢朗の作品は、美しかった。この世に存在しない、ファンタジーの世界を描くこともあれば、ありきたりの日常を描くこともある。生まれたての赤子。乳を飲むその姿。――巨大な花のうえで踊る、少女と少年の姿。生き物の在り方。
「……隅田くんって面白い絵を描くよね……」
ある時期から、智子は、琢朗に興味を示し始めた。その姿は、おれに、敗北感を与えた。
琢朗の存在価値を見出したのは、このおれだ。おれがいなかったら、琢朗なんか、誰も目を向けず、誰とも交流せず、クラスの最下層に位置したまま一生を終えていたかもしれない。いるよなこういう、ドラマの脇役にしかなれないやつ。あーあ。
琢朗は琢朗で、おれに対して別段感謝を示すこともなく。それがまたおれの闘争心を煽った。――何故、智子が琢朗に目をつけるのか、意味が分からなかった。中身もビジュアルもおれのほうが上だぞ? 出木杉がおれで、のび太が琢朗。それともあれか? だめんずフェチなのか? 智子は?
それでも、おれは……好感度を下げるわけにはいかなかったから、動揺など微塵も見せず、普段通り、周囲に求められる三田遼一像を演じ続けた。
夏休みが明けたときに、智子は……なんと、琢朗と手を繋いで登校した。その姿に周囲がざわついた。
かつ、琢朗が描くのは……智子だけ。智子ばかりとなった。
へえ、おまえの目には、こんなにも智子は美しく映るのか……背後からキャンバスを覗き、おれは、感心した。
白と黒の紡ぐ美麗な世界。琢朗の目を通すとこんなにも違うのか……自分の濁った視界からは見えないものが描かれていた。
ふたりのあいだになにかがあったのかは瞭然。だがその結果をおれは、屈辱的なものとして受け止めた。世界の中心にいるマドンナ、智子は、この学年の君主たるおれの恋人でなくてはならなかった。間違っても底辺の、琢朗と交際することなどのない。
おれは、放課後、智子を、呼び出した。休み明けのテスト期間なので、部活はなく、皆、早めに帰宅している。
がらんとした教室を見回しておれは、智子に、尋ねた。「……琢朗とつき合っているの?」
「ううん。琢朗くん、しばらくは絵に没頭したいんだって」
「じゃあ、なんで、手を繋いで登校した」
「そうすれば、……三田くん、屈辱を感じるだろうなあって思って」
悪女のように微笑する彼女は誰だろう、とおれは思う。「――屈辱。どういう意味だ?」
「だって三田くん……琢朗くんのことを、底辺にいる男だって見下して、彼を救い出すことで英雄気取りしてたでしょう? そういうの、迷惑がるひともいるんだよ……知らなかった?」
足元ががらがらと崩れていく感覚。いままで自分が守り抜いてきたものは……なんだったのだ?
「琢朗がそう……言ったのか」意図せずおれの声はふるえた。「なら……なんで直接おれに伝えない……弱虫めが」
「そういう選別思想に、みんな辟易してるって三田くん……知らない?」
笑顔で放たれた言葉が、攻撃の矢となって、おれの胸をえぐった。
――知らない。
おれは、知らなかった。まるで……はだかの王様だ。
以来、おれは、自分を、閉ざした。誰から話しかけられても答えない。無視を……貫いた。
自分がどんな声をしているのかさえ、分からなくなってくる。親には……必要最低限。だから、親にはバレていないと、いまでも思っている。
そこからおれが自分を取り戻すには……ある男の登場を待たなければならない。それまで、おれは、日陰の道をただ歩いた。孤独なままに……自分の生まれてきた意味を知らないままに。
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