テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
46,527
159
「屋敷の中で、だと」
侯爵様の声が、わずかに低くなった。
私は掛け紙を電気スタンドの光に傾けて、線の中の斜めの筋を見せた。
「謄写版のヤスリの目です。台所に貼ってある献立表と、同じ目をしています。あれは女中部屋の謄写版で刷っていると、お鈴が」
侯爵様は掛け紙を受け取らず、光の中のそれを長いあいだ見下ろしていた。
「明日、真柴に調べさせる」
「いいえ」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「旦那様や真柴さんが女中部屋へ行けば、皆、身構えます。隠されてしまいます。……私に行かせてください」
侯爵様の目が、初めて正面から私を見た。
灰色がかった黒い目。何を考えているのか、少しも読めない。
「……好きにしろ」
長い沈黙のあとで、侯爵様は言った。
「ただし、何も口にするな。茶の一杯もだ」
*
翌日の昼下がり。
私は、小さな包みを抱えて使用人棟へ向かった。
中身は、父の活版所で刷った「しおり」だ。売り物にならなかった端紙に、草花の小さな絵と、四号の楷書で一行の歌を刷った、本の間に挟む細長い紙。火事の前に、行李の底に入れておいたものが少しだけ残っていた。
嫁入りの御挨拶と、お鈴のお見舞い。そういう名目なら、嫁が女中部屋を訪ねても、おかしくはない。
少なくとも、追い返されはしない。
「まあ、奥様」
「奥様が、こんな所に」
女中部屋の障子を開けると、繕い物をしていた女中たちが、ばたばたと居住まいを正した。
十畳ほどの板の間に畳を敷いた部屋で、行李と柳の箱が壁際に積まれている。部屋の隅に敷いた布団の上で、お鈴が慌てて起き上がろうとしていた。
「寝ていて。顔色、だいぶよくなったわね」
「奥様ぁ……」
お鈴は、また泣きそうな顔になった。
「皆さんに、ご挨拶が遅れました。栞と申します。これからお世話になります」
私が畳に手をついて頭を下げると、女中たちは顔を見合わせた。
「奥様が、女中に頭なんて」
ふくよかな頬の女中が、困ったように笑った。ハナさんというらしい。
しおりを一枚ずつ配ると、ハナさんは窓の光にかざして、「まあ、かわいらしい」と声を上げた。
「父の仕事場で刷ったものです。本の間に挟んでくださいな」
「本なんて、読まないけど。大事にします」
ハナさんの笑顔に、部屋の空気が少しだけほどけた。
「前の奥様も、こんなふうにここへいらしたことがあるの?」
何気なく訊くと、ハナさんは、ああ、と懐かしそうな顔をした。
「千鶴様が、一度。女学校の頃に自転車でお転婆をなさった話をして、皆を笑わせてくださいました。……あ、すみません、奥様の前で」
「いいの。聞かせて」
千鶴さんの話をする人が、この家にもいる。それだけで胸が詰まりそうになって、私は急いで目を逸らした。
壁際の棚に、雑誌が何冊か重ねてあった。
『婦人の窓』の一月号、二月号、三月号。表紙が手垢で柔らかくなっている。皆で回し読みしているのだろう。
四月号だけが、見当たらなかった。
「四月号は、まだ届いていないの?」
「さあ……届いたと思いますけど。誰かが持ってったのかしら」
ハナさんは首をかしげた。
回し読みの雑誌が、一番新しい号だけ消えている。
誰かが一人占めしたくなるほど面白い号だったのか。それとも、皆の目に触れては困る切り口が、どこかに開いているのか。
私は棚から目を離し、何も気づかなかった顔で、隣の年若い女中にもしおりを渡した。キヨと名乗ったその子は、受け取った紙を両手で胸に押し当てた。
*
部屋の奥、窓際の小机の上に、謄写版の道具一式が置かれていた。
木の枠のついた刷り台、ヤスリ板、鉄筆が数本、インクローラー。インクの缶は二つ。黒と、紅。
「これで献立を刷るのね」
何気ない声を作って近づく。
「はい。献立と、当番表と。たまに大奥様の御茶会のお品書きも」
ハナさんが答えてくれる。
ヤスリ板を、そっと指でなぞった。
鋼の板の表面に、細かな溝が刻まれている。溝は板の縁に対して、まっすぐではなく、斜めに走っていた。
掛け紙の線の中の筋と、同じ向き、同じ細かさだった。
刷り台の脇の柱には、今週の当番表が貼ってある。
「四月第二週 当番」。
月曜から順に、女中の名が二つずつ並んでいた。
「月曜 駒 鈴」「火曜 ハナ 駒」「水曜 キヨ ハナ」……。
これも、同じ斜めの目の刷りだ。
布団のお鈴が、そっと私の袖を引いた。
「奥様。昨日のお菓子、捨てておいでって、あたしに言ったのは……」
「お鈴」
「お、お……」
お鈴の唇が、ある名前の形に動きかけたとき、廊下に足音がした。お鈴はびくりと口をつぐみ、布団を頭まで引き上げてしまった。
小机の下に、屑籠があった。
反古紙と、糸くずと、使い終わった蝋紙の切れ端。
私は屈んで、しおりの包み紙を捨てるふりをした。
薄茶色の蝋紙の切れ端が、一枚、上のほうに引っかかっている。光にかざさなくてもわかった。鉄筆で削られた細い線が、字の形に抜けている。
「草」と、その下の「堂」の半分。
千草堂。
「奥様」
涼やかな声が、背中に降ってきた。
振り向くと、戸口に若い女中が立っていた。
目鼻立ちのはっきりした、美しい人。昨日、家令室にお菓子を運んできた、あの人だった。
今日は爪の際まで、綺麗に洗われている。
「お駒と申します。お鈴のことでしたら、どうぞご心配なく。私どもでちゃんと面倒を見ておりますので」
口元は笑っている。けれど、私に向けられた目は少しも笑っていなかった。
「昨日のお菓子は、お駒さんが運んでくださったのね」
「はい。大奥様のお使いだと、台所口で言いつかりましたので」
「どなたに?」
「さあ。勝手口は人の出入りが多うございますから」
お駒さんは小首をかしげて、また微笑んだ。
「奥様こそ、こんなむさくるしい所で、何をお探しですの」
私は答えずに、屑籠の蝋紙へ手を伸ばした。
指先が、薄い紙に触れる。
ぱしん、と乾いた音がした。
手の甲が熱い。蝋紙がひらりと畳に落ちる。
私の手を払ったのは、いつの間にか部屋に入ってきていた、タキさんだった。
「奥様が女中の真似事など、なさるものではございません」
小柄な体から出たとは思えない、硬い声だった。
女中たちが凍りついたように黙る。お駒さんだけが、口元に手を当てて、目を伏せた。
タキさんは畳の蝋紙を拾い上げると、くしゃりと丸めて、自分の前掛けの隠しにしまってしまった。
「お鈴の見舞いでしたら、もうお済みでございましょう。洋館へお戻りくださいまし」
「タキさん。その紙を」
「何の紙でございますか。ただの反古でございます」
手の甲が、じんと痺れている。
この人は、誰を庇っているのだろう。お駒さんか。それとも、お駒さんに何かを言いつけた、もっと上の誰かか。
あるいは、タキさん自身なのか。
目が合った。
皺に囲まれた鋭い目の奥に、怒りとは別の何かが見えた気がした。
けれど、それが何なのかわかる前に、タキさんは私の耳元へ顔を寄せた。
ほかの誰にも聞こえない、低い声。
「この家の奥様は、皆様お早く亡くなられます。お帰りになったほうがよろしい」
コメント
1件
いやあ、今回もじわじわ来ましたね……。女中部屋の空気感、女中たちの反応、そして何よりタキさんの「この家の奥様は皆様お早く亡くなられます」が重すぎます。栞さんが手を伸ばした蝋紙をぱしんと払うあの瞬間、ゾクッとしました。千草堂の文字は確かに出てきたけど、お駒さんの笑顔が怖い。次はどう動くんだろう、もう夢中です。 (198字)