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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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この家の奥様は、皆様お早く亡くなられます。
タキさんの声が、夜になっても耳から離れなかった。
寝台の上で何度寝返りを打っても、目が冴えていくばかりだ。
あれは脅しだったのだろうか。それとも、忠告だったのだろうか。
払われた手の甲には、もう赤みも残っていない。けれど、あの硬い声の奥に、私は何か別のものを聞いた気がしていた。
怯え、に近い何か。
夜も更けた頃、ふと、嗅いだことのない匂いが鼻をくすぐった。
甘いような、焦げたような、鼻の奥がつんとする香り。
階下からだった。
*
羽織を肩にかけて、そっと階段を下りる。
洋館の一階の廊下の突き当たり。厨房の扉が細く開いていて、橙色の灯りが漏れていた。
鍵穴には、侯爵様がいつもチョッキの隠しに入れている鍵が、差したままになっている。中に人がいるときは、外から誰も閉じ込められないように、ということだろうか。
覗くと、侯爵様がガス焜炉の前に立っていた。
白いシャツの袖をまくり、片手に木杓子。鍋の中で、黄土色のどろりとしたものが、ふつふつと煮えている。
「眠れないのか」
振り向きもせずに言われた。足音を立てたつもりはなかったのに。
「……はい。申し訳ございません、勝手に」
「座れ」
侯爵様は、壁際の小さな卓を顎で示した。
「すぐにできる」
鍋の中身は、ライスカレーというものだった。
女学校の頃、カフェーの品書きで名前だけは見たことがある。食べるのは初めてだ。
「英国の下宿で覚えた。インドから帰った軍人がいて、作り方を教わった」
侯爵様は、丸い缶から黄色い粉を匙ですくって鍋に足した。缶の横文字は、私には読めない。
白飯を皿に盛り、その上にとろりとカレーをかける。玉葱と、鶏と、馬鈴薯。湯気と一緒に、あの不思議な香りが立ちのぼった。
侯爵様は皿を二つ、卓に並べた。そして、私の向かいに座った。
二人で向かい合って食べるのは、初めてだった。
一匙、口に入れる。
甘い、と思った次の瞬間、舌の上がかっと燃えた。
「っ……」
思わずむせると、侯爵様が無言で立ち上がった。水甕から湯呑みに水を汲み、私の前に置く。
「ここの水は、私が汲んできたものだ」
「ありがとう、ございます」
水を飲み干す間に、侯爵様はもう一度立ち上がっていた。小さな鉢に卵を割り、私の皿の真ん中に、黄身をそっと落とす。
「混ぜろ。辛さが和らぐ」
言われた通りに混ぜると、確かに角が取れて、まろやかになった。
「……美味しいです」
侯爵様は返事をしなかった。
けれど、自分の皿に匙を入れる前に、ほんの一瞬だけ、私の皿を見た。
「次は、辛くしない」
次、があるのだ。
そう思ったら、なぜか耳が熱くなった。私は慌てて、残りのカレーを口に運んだ。
「本所から、医者の報告が来た」
侯爵様が、自分の皿を見たまま言った。
「父上は、熱が引いて落ち着いているそうだ。咳止めの薬を替えた。夜もよく眠れていると」
「……ありがとうございます」
匙を握る手に、力が入った。
「何から何まで、お世話になって」
「礼は要らない。そういう約束だ」
約束。一年で離縁する妻の、実家の面倒まで見る約束。そんなものを、この人は誰と交わしたのだろう。
*
「女中部屋はどうだった」
食べ終わる頃、侯爵様が訊いた。
「お茶は一杯もいただきませんでした」
「それはいい。……ほかには」
私は、刷り台とヤスリ板のことを話した。掛け紙の筋と、ヤスリの目の向きが同じだったこと。献立表も当番表も、同じ板で刷られていたこと。
蝋紙をタキさんに取り上げられたことは、なぜか言えなかった。
侯爵様は黙って聞いていた。
話が活字のことになると、灰色の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「謄写版の線は、活版の線とまるで違うのです。活版は、活字を押しつけて刷るでしょう。だから線の縁が濃くなって、紙の裏に跡が残ります。謄写版は、蝋紙の穴からインクが染み出すだけですから、縁がぼやけて、紙の裏はすべすべで」
「なるほど」
「植字工は、活字を裏返しのまま読むんです。字が鏡に映したように逆さまでも、すらすら読めます。私も、小さい頃から活字棚の間で遊んでいましたから」
「逆さでも、読めるのか」
「はい。父の口癖があるんです。活字は嘘をつかん、嘘をつくのは組む人間だ、って」
侯爵様は、左の眉を、人差し指でゆっくりとなぞった。
考えるときの癖なのだろう。
その仕草を、私はどこかで見たような気がした。けれどそのときは、それ以上考えなかった。
「いい言葉だ」
侯爵様はそう言った。
私の話を、こんなふうに最後まで聞いてくれた人は、父と千鶴さんのほかにはいなかった。
胸の奥がゆるんで、つい、言わなくていいことが口から滑り出た。
「前の奥様方も、このカレーを召し上がったのですか」
侯爵様の匙が、皿の縁で止まった。
かちり、と小さな音がした。
「前の奥様方は、どんな方で……」
「君には関係ない」
匙が置かれる。さっきまでの灯りの温度が、すっと下がった気がした。
侯爵様は立ち上がり、皿を流しへ運んで、私に背を向けた。
「もう寝ろ。明日も早い」
*
部屋に戻っても、やはり眠れなかった。
君には関係ない。
関係ならある。千鶴さんは私の親友だった。あなたの二人目の奥様は、私に手紙をくれたのだ。この家の紙は嘘をつく、と。
言えるはずのない言葉を、枕に押しつける。
夜半を過ぎて、屋敷がすっかり静まった頃、私は寝台を抜け出した。
昼間、お鈴から聞いておいたのだ。和館の二階に、閉め切った部屋が二つある。手前が一人目の小夜子様の「藤の間」。奥が千鶴さんの「萩の間」。
見るだけでいい。千鶴さんが最後に暮らした部屋の、戸だけでも。
渡り廊下を渡り、和館に入る。暗い。
階段は急で、途中に踊り場があった。手すりを頼りに、一段ずつ足を探る。軋まないように、板の端を踏む。
二階の廊下に出た。
月明かりが、障子越しに青白く床を照らしている。
廊下の奥に、並んで二つの部屋があった。
どちらも、和館には珍しく錠前のついた板戸が嵌められている。手前の戸の脇の柱には、色褪せた藤の花の飾り彫り。藤の間だ。戸の桟には、うっすらと埃が積もっていた。
もう二年以上、誰も開けていないのだろう。
その奥の、萩の間の前に、誰かが立っていた。
背の高い、痩せた影。白いシャツ。
侯爵様だった。
私は踊り場の陰に身を縮めた。
侯爵様は、閉め切った萩の間の板戸に、額をつけていた。
両腕はだらりと下がり、肩がかすかに上下している。泣いているのか、祈っているのか、それとも何かを悔いているのか。顔が見えないから、わからない。
長い、長い時間、侯爵様はそうして動かなかった。
私は息を殺していた。
見つかったら、何と言えばいいのだろう。眠れなくて歩いていた、では通らない。洋館の部屋から和館の二階まで、迷い込む道理がない。
心臓の音が、踊り場の板に響いてしまいそうだった。
妻を殺した人が、こんなふうに、妻の部屋の前で夜を明かすものだろうか。
それとも、殺した人だからこそ、ここへ来ずにはいられないのか。
月の光が、その右手の中で、小さく光った。
握りしめられていたのは、鍵だった。
コメント
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第7話、めちゃくちゃ良かったです…!侯爵様がカレー作ってくれるなんて思わなくて、あの甘いけど辛い味わいとか、卵で和らげる優しさにグッときました。でも「前の奥様方には関係ない」の一言で空気が変わるところ、そして夜中に鍵を握りしめて部屋の前に立つ後ろ姿…切なすぎる。千鶴さんからの手紙の伏線も気になるし、「次」があるって言ってくれたときの主人公の耳が熱くなる感じ、すごく共感しました。続きが待ち遠しいです🔥