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玄関から応接間までの廊下は長くて、絵が三枚かかっていた。東雲さんが私の半歩前を歩きながら、振り向かずに言った。
「社長は、飴を三つ食べると話を終えます。それまでに言いたいことは言ったほうがいいですよ」
「……どうして、それを私に」
「正面から勝ちたいので」
東雲さんは扉を開けて、先に私たちを通した。
応接間は、天井が高くて、音がよく響いた。
長いソファが向かい合わせに二つ。壁に大きな絵が一枚。写真は、どこにもなかった。家族の写真というものが一枚もない応接間を、私は初めて見た。
社長は、奥の一人掛けの椅子に座っていた。椅子の横の小さな机に、飴の器が一つ。
会社で遠くから見るより、小さく見える。声は低い。手元の小さな器から飴を一つ取って、口に入れる。
「座りなさい」
専務が座って、私がその隣に座った。東雲さんは、社長の側のソファに座った。家の側の席だった。
「水瀬さん、だったな」
「はい。水瀬ひよりです」
「君の家は、何をしている」
来ると分かっていた質問だった。分かっていても、声が出るまでに少し間が要った。
「父は、印刷所をしていました。今は閉めています」
「印刷所」
社長は飴を転がして、天井を見た。何かを思い出すときの顔だった。
「水瀬印刷か」
「……はい」
「うちの請求書を刷っていた。潰れた所だな」
その言い方に、専務の手が、膝の上で止まった。
社長は、専務のほうを見なかった。私を見ていた。
「釣り合わん」
飴を転がす音のほかに、誰も声を出さなかった。
東雲さんは、何も言わない。専務も、何も言わない。隣から動くな、と言われている。私は、動かなかった。
でも今、潰れた所だと言われたのは私ではない。
父だ。
二十年、同じ会社の請求書を刷って、紙の厚さと色を一度も間違えなかった人だ。
私は背筋を伸ばした。
「父の印刷所は、御社の請求書を二十年刷っていました。一度も納期を遅らせていません」
声は、普通に出ていた。
社長の目が、少し動く。飴の音が止まる。
「……二十年」
「はい。閉めたときも、最後の納品を終えてからでした。御社の経理には、父が直接頭を下げに行っています。請求書の紙の厚さを、二十年、一度も変えなかった人です」
「それは、知っている」
社長は、しばらく私を見ていた。それから、新しい飴を取って口に入れた。
「知っていて、言った」
「はい」
隣で、専務が口を開いた。
「だから選んだ」
社長が、専務を見た。
「釣り合いで選ぶなら、親父の縁談で足りる。俺は、そうしなかった。それだけだ」
「……それだけ、か」
「それだけだ」
社長は飴を噛んだ。音がした。東雲さんが、目を伏せた。
「十二月十二日」
社長が言った。
「創業六十八年の記念パーティーだ。親族が全員来る。そこで紹介できるなら、認める」
「できなければ」
「東雲さんとの話を進める」
東雲さんが顔を上げて、言った。
「私は、構いません」
社長は三つ目の飴を取って、口に入れた。
「奏。あの日までに、何を見せるつもりだ」
「見せるものは、もう見せた」
「……それだけ、か」
「それだけだ」
社長は立ち上がって、応接間を出ていった。飴の器だけが、机の上に残った。三つ、減っていた。
東雲さんが、私の横を通るときに、小さく言った。
「一つ目で言い切りましたね。早いほう」
帰りの車の中で、私はしばらく窓の外を見ていた。
世田谷の住宅地、日曜の夕方。石の門が、どんどん後ろに遠くなっていく。
「よく言った」
専務が言った。前を見たまま。
「……父のことだったので」
「知っている」
専務の右手が、膝の上で開いて、閉じた。応接間で止まっていた手だった。
「親父は、ああいう男だ。言うことは変えない。だが、言ったことは守る」
「十二月十二日、ですか」
「ああ。あの日に紹介できれば、親父はそれ以上言わない」
あと二か月。契約の半年の、三分の一。
高梨さんは、運転席で何も言わない。信号が赤になって、車が止まった。
「専務」
「ああ」
「どうして、私を」
聞くつもりはなかった。でも、応接間で「だから選んだ」と言った声が、まだ耳に残っている。
専務は、少しのあいだ黙っている。信号が青になって、車が動いた。
「台帳が、読みやすかった」
「……台帳、ですか」
「字が揃っている。数が合っている。余白に、要らないことを書かない」
要らないことなら、書いた。十月五日の余白に。
でも、それは言わなかった。代わりに、笑ってしまった。
声は出なかったと思う。でも、肩が動いた。この一週間で、初めてだった。
専務が、私を見た。それから、すぐに窓の外を見た。
「何がおかしい」
「いえ。読みやすい、は、初めて言われました」
「……そうか」
専務は窓の外を見たまま、それ以上何も言わなかった。
専務の膝の上で、スマホが震えた。
画面を見て、専務の顔が、一度だけ動いた。私は見ないようにしていたけれど、画面は私の側に向いていた。
『佐伯が、水瀬さんについて面白い話を持ってきた。明日、話がある』
差出人は、常務、と出ていた。
専務は、画面を伏せた。
コメント
1件
最新話読んだよー! 社長の「釣り合わん」からのひよりさんの反論、すごく良かった…! 潰れた印刷所って言われたときに父ちゃんの仕事を背筋伸ばして語るところ、めちゃくちゃ胸にきたわ。台帳が読みやすいから選んだって専務の言葉も渋くて好き。 ラストの常務からのメッセージ、気になりすぎるんだけど…! 次回が待ち遠しい🔥