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制服の代わりに、慣れた私服へ袖を通す。
鏡の前で、軽く髪を整えた。
「……よし」
誰に見せるわけでもないのに、少しだけ真剣になる。
いや、本当は違う。
“誰に見られるか分かっている”からだ。
スマホを見る。
時刻は、十時四十八分。
家を出るには、ちょうどいい頃合いだった。
机の上のスマホを手に取ると、通知が増えている。
グループのトーク画面。
『もう起きてる?』
『いるま寝てそう』
『返信ないね』
『迎え行こうか?』
「……え」
思わず声が出た。
スクロールする。
『近いし俺行くよ』
その一言で、会話は止まっていた。
「……迎えって……」
心臓が、少しだけ速くなる。
別に、珍しいことじゃない。
今までも何度かあった。
でも――
分かっていても、慣れることはなかった。
ピコン。
新しい通知。
『下着いた』
「っ!?」
反射的に窓へ駆け寄る。
カーテンを少しだけ開けて、下を見る。
見慣れた姿。
スマホを見ながら、壁にもたれている。
「……ほんとに来てる……」
喉が渇く。
なんで。
なんでそんな自然に来れるんだよ。
近い。
距離が。
物理的にも、精神的にも。
『今行く』
短く返信して、スマホを握りしめる。
落ち着け。
これは普通だ。
メンバーだ。
仲間だ。
いつも通りだ。
そう自分に言い聞かせて、玄関を出た。
階段を降りる。
一段ずつ。
心臓がうるさい。
そして。
最後の一段を降りた瞬間。
「……あ」
顔を上げたその人と、目が合った。
「お、いた」
笑った。
当たり前みたいに。
ずっと前からここにいたみたいに。
「おはよ、いるま」
「……おはよ」
それだけのやり取り。
それだけなのに。
胸が、ぎゅっとなる。
「返信遅いから、まだ寝てるかと思った」
「起きてたよ」
「ほんと?」
覗き込まれる。
近い。
顔が。
距離が。
「……っ」
一歩、下がりそうになる。
でも、それを我慢する。
不自然になるから。
「顔、赤くない?」
「赤くない」
「ほんとに?」
さらに近づく。
近い近い近い近い。
(無理無理無理)
(これ、完全に距離バグってるだろ)
(なにこのシチュエーション)
頭の中で、勝手に言葉が並ぶ。
やめろ。
今はやめろ。
「……行こ」
先に歩き出した。
背中を向ける。
これ以上、顔を見られたらまずい。
「いるま」
呼ばれる。
「なに」
振り返る。
その瞬間。
手首を、軽く掴まれた。
「……!」
「置いてかないでよ」
笑っている。
冗談みたいに。
でも、
手は離さない。
(は!?!?!?)
(ちょ、ちょっと待て待て待て)
(なにこの展開)
(手首掴むとか聞いてない)
(完全に“それ”じゃん)
頭が真っ白になる。
触れている部分が、熱い。
意識が、そこに集中する。
「……いるま?」
名前を呼ばれる。
心配そうな声。
「顔やばいけど」
「やばくない」
「やばいって」
くすっと笑う。
そして、
ゆっくりと、
手を離した。
「……ごめん」
その一言が、
妙に優しくて。
「……別に」
それ以上、何も言えなかった。
並んで歩く。
いつもと同じ距離。
でも、
さっきまで触れていた場所が、
ずっと、熱を持ったままだった。
(無理……)
(無理無理……)
(心臓もたない……)
横を見る。
何も知らない顔。
普通の顔。
仲間の顔。
でも、
俺にとっては――
普通じゃない。
好きとか、
そういう意味じゃない。
でも、
特別で。
大切で。
そして、
“推し”で。
「今日さ」
「……なに」
「収録終わったら、時間ある?」
「あるけど」
「じゃあさ」
一瞬、間を置く。
「ちょっと寄り道しよ」
「……寄り道?」
「うん」
笑う。
「二人で」
「――っ」
思考が止まった。
二人で。
二人。
二人きり。
(いやいやいやいや)
(待って待って待って)
(それはまずい)
(いろんな意味でまずい)
「……嫌?」
「嫌じゃない」
反射的に答えていた。
その言葉に、
相手は、少しだけ嬉しそうに笑った。
「よかった」
その笑顔を見た瞬間、
胸が、
また大きく鳴った。
きっと今日も、
俺は知らないふりをする。
この気持ちも。
この距離も。
全部。
秘密のまま。