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香帆は、朝起きて最初にやることを決めていた。
スマートフォンを手に取り、通知の数を見る。
それが、その日の体調を決めた。
数字が多ければ、呼吸は深くなる。
少なければ、少しだけ胸が詰まる。
「おはよう」
誰に向けた言葉かは、もう分からない。
画面の向こうには人がいるはずなのに、
実感として存在するのは、数字だけだった。
——いいね。
——コメント。
——保存数。
欲しい、と思った。
最初は、正直な気持ちだった。
「これ、かわいいよね」
「これ、便利だった」
「これ、助けられた」
共感されると、うれしかった。
誰かの生活に、少しだけ混ざれた気がした。
欲しい、は生きてる感じがした。
フォロワーが増えるにつれて、
欲しいものも増えた。
反応。
速度。
確実さ。
「今日はテンション低め?」
「最近、前より刺さらない」
そう言われると、胸の奥がざらついた。
刺さる、という言葉が、
いつの間にか自分の価値を指す単語になっていた。
刺さらない=要らない。
香帆は、その式を否定できなかった。
だから、欲しがった。
もっと分かりやすく。
もっと感情的に。
もっと、誰かの欲に合うように。
朝の投稿は三案作った。
昼用、夜用、もし伸びなかったときの保険。
「これなら要る」
そう言ってもらえる確率を、
頭の中で計算する癖がついた。
欲しい、欲しい、欲しい。
誰かに、必要とされたい。
消えないように。
ある日、ライブ配信で、
画面の端に一つのコメントが流れた。
「正直、もう要らないかな」
速かった。
一瞬で、他のコメントに流された。
けれど香帆は、その一文だけを拾ってしまった。
心臓が、遅れて鳴った。
要らない。
罵倒でも、批判でもなかった。
理由も、怒りもない。
ただの判断。
それが、いちばんきつかった。
配信は続けた。
声は震えなかった。
笑顔も崩れなかった。
でも、終わったあと、
スマートフォンを置いた手が、しばらく動かなかった。
要らない、と思われた。
それだけの事実。
香帆は、その言葉を何度も反芻した。
「嫌い」なら、反論できた。
「間違ってる」なら、説明できた。
「うるさい」なら、無視できた。
でも、「要らない」は、
どこにも引っかからなかった。
次の日、投稿を休んだ。
「体調不良です」とだけ書いた。
本当は、体調は悪くなかった。
欲しい、が出てこなかった。
欲しいと言わなければ、
欲しがられない。
欲しがられなければ、
自分がどこにいるのか分からない。
夜、フォロワー数を見た。
少し、減っていた。
それは、誰かが静かに去った数字だった。
香帆は、初めて、
誰にも向けずに呟いた。
「……もう、要らないのかな」
答えは返ってこなかった。
返ってこないこと自体が、
答えのようでもあり、
そうでないようでもあった。
数日後、香帆は久しぶりに外に出た。
カフェで、隣の席の会話が耳に入る。
「別に要らなくなっただけだよ」
「そうなんだ」
それだけで、話は終わっていた。
誰も傷ついていないように見えた。
誰も、説明を求めていなかった。
香帆は、コーヒーを一口飲んだ。
苦くも甘くもなかった。
欲しい、と思わなかった。
要らない、とも思わなかった。
ただ、ここにいる、という事実だけがあった。
それは、少し怖くて、
少し静かで、
思っていたより、崩れなかった。