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麻子は、別れ話を切り出す日を、特別な日にしなかった。
平日。
雨でも晴れでもない、曇りの日。
「今日、少し話せる?」
その言い方も、普段と同じだった。
部屋には、二人分のマグカップがあった。
一つは欠けていて、でも使い続けている。
買い替える理由は、特になかった。
「どうしたの」
彼は、まだ何も知らない顔をしていた。
そのことが、少しだけ意外だった。
麻子
「もう、一緒にいる必要はないと思う」
彼
「……え?」
間。
彼の表情が、理解に追いつこうとしている。
彼
「喧嘩したっけ」
麻子
「してない」
彼
「じゃあ、なんで」
麻子
「終わったから」
彼は笑おうとしたが、うまくいかなかった。
彼
「終わったって、何が」
麻子
「私の中で」
彼
「急すぎるよ」
麻子
「急じゃない。
言ってなかっただけ」
彼は、テーブルの上の欠けたマグカップを見る。
彼
「俺、まだ要るだろ」
その言い方は、問いでも命令でもなかった。
確認だった。
麻子
「……」
麻子は、少し考えてから答えた。
麻子
「もう、要らない」
声は平坦だった。
強くも、弱くもない。
彼
「ひどいな」
麻子
「そう聞こえると思う」
彼
「冷たいよ」
麻子
「否定しない」
彼
「好きだったんだろ」
麻子
「好きだった」
彼
「じゃあ——」
麻子
「今は違う」
彼は、言葉を探しているようだった。
説得。
理由。
反論。
彼
「俺、変わるよ」
麻子
「変わらなくていい」
彼
「じゃあ、何が不満だった」
麻子
「不満じゃない」
彼
「じゃあ、なんで」
麻子
「必要がなくなった」
その言葉は、彼の中で何かを崩した。
怒りではなく、重さが落ちた音だった。
彼
「それ、俺が生きてることも、どうでもいいってこと?」
麻子
「違う」
彼
「同じだろ」
麻子
「生きてるかどうかと、
一緒にいるかどうかは、別」
彼
「……残酷だな」
麻子
「残酷に聞こえるのは分かってる」
彼
「じゃあ、どう思ってるんだよ」
麻子
「事実だと思ってる」
それ以上、言葉は出なかった。
時計の針が進む音だけが、部屋に残る。
まだ動いている時計だった。
彼
「俺は、まだ欲しい」
麻子
「そうなんだと思う」
彼
「欲しいって言っても、だめ?」
麻子
「だめじゃない」
彼
「じゃあ——」
麻子
「応えない」
彼は、そこで初めて、声を荒げた。
彼
「そんなの、否定と同じだろ!」
麻子
「否定しない。
受け取らないだけ」
彼は立ち上がり、また座った。
彼
「……俺、どうしたらいい」
麻子
「あなたのことは、あなたが決めて」
彼
「突き放してる」
麻子
「手放してる」
言葉の違いだけで、意味は大きく変わった。
しばらくして、彼は小さく息を吐いた。
彼
「まだ、俺のこと、人としては見てる?」
麻子
「見てる」
彼
「じゃあ……」
麻子
「それで十分」
彼は、それ以上、何も言わなかった。
帰り際、彼は欠けたマグカップを手に取った。
彼
「これ、持っていっていい?」
麻子
「どうぞ」
彼
「要らない?」
麻子
「要らない」
彼は、少しだけ頷いた。
玄関のドアが閉まる音は、静かだった。
泣き声も、罵声もなかった。
麻子は、一人になった部屋で、
残ったもう一つのマグカップに水を注いだ。
満ちても、溢れなかった。