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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
土曜日の朝五時、離れの窓には、まだ灯りがついていた。
私は厨房の灯りをつけ、卵を割った。
甘酒を、いつもの量だけ。
今日は、大きめに三本巻いた。
俵のおにぎりに、鶏の唐揚げ。茹でたブロッコリー。りんごは、うさぎの形に。
重箱の一段目に、卵焼きを並べた。
陽翔の、幼稚園の運動会だった。
*
朝食の席で、蒼真は新聞を広げたまま言った。
「今日は、出資してくれた人と会う。午後まで、戻らない」
「私も、パス」
麗奈は、トーストの端をちぎって皿に戻した。
「十月なのに、日差しが強いって。砂ぼこりで、ネイルもだめになるし」
止められたカードのことは、誰も口にしなかった。
お義母さまは、箸を置いた。
「人の多いところは、肩に障るわ」
陽翔は、黙って卵焼きを口に運んでいた。
下の前歯の隙間から、舌の先がのぞいていた。
「……りんさんと、おじさんと、げんさん」
小さな声だった。
「りんさんと、おじさんと、げんさんが、来てくれる」
食堂が、静かになった。
麗奈が、鼻で笑った。
「何それ。家政婦と、庭師と――」
「構わないわ」
お義母さまが、麗奈の言葉の上に、声を置いた。
「家政婦が付き添うのは、構わない。御影の子が、運動会に一人で出るよりは」
それから、湯呑みを取った。
お茶が、少しぬるくなっていた。お義母さまは、何も言わずにそれを飲んだ。
*
白樺台の丘の上の幼稚園は、万国旗で埋まっていた。
園庭の端に、源さんがござを広げてくれた。
作務衣に、手拭いの鉢巻き。大きな水筒を三本、肩から提げていた。
「陽坊の晴れ舞台だ。わしが一番前で見る」
受付のテントで、付き添いの名簿に名前を書くように言われた。
ボールペンを、右手で取った。
御影陽翔、の欄の横に、佐伯凛、と書いた。続柄の欄で、ペンが止まった。
家政婦、と書いた。
本当は、母、と書きたかった。右手の字は、今日も、小学生のように角ばっていた。
「あら」
テントの中の先生が、名簿をのぞきこんだ。
丸顔の、四十くらいの先生だった。去年の、年中組の担任。
連絡帳に、毎日、赤いペンで返事をくれた人だ。
「陽翔くんのおうちの方。……去年は、お母様がいらしてたのよね。卵焼きの、甘いお弁当で」
「……さようでございますか」
「あのお弁当、先生たちの間でも評判だったの。今の担任の先生も、心配してたのよ。春ごろは、陽翔くん、お弁当を残してばかりだって」
先生は、私の顔を見て、それから、手元の名簿の字を見た。
「それが、梅雨のころから、また全部食べてくるようになったって。甘い卵焼き、入ってるでしょう」
私は、頭を下げた。
顔を上げられなかった。
この人は、私の左手の字を、一年間、毎日読んでいた。
*
榊さんは、少し遅れて来た。
濃紺のセーターに、灰色のズボン。
スリーピースではない榊さんを、私は初めて見た。
「……変か」
「いいえ」
変ではなかった。
ただ、銀縁の眼鏡と、額に一筋落ちた黒髪だけが、いつもと同じだった。
「スーツで来たら、目立つと思った」
園庭の父親たちの中で、頭一つ抜けて背が高い人が、そう言った。
十分に、目立っていた。
源さんが、ござの上で、くっくっと肩を揺らした。
ござの真ん中では、ぴょんたが留守番をしていた。園児の列の中から、陽翔が榊さんを見つけて、小さく手を振った。
*
年長組のかけっこで、陽翔は二番だった。
走りながら、ずっと、ござのほうを見ていた。
一番の子に抜かれたのは、そのせいだった。
ゴールしてから、陽翔は振り向いて、こちらに大きく手を振った。
「見えた?」
声は聞こえなかったけれど、口がそう動いていた。
榊さんは、スマホを横に構えたり縦に構えたりして、結局、画面の半分を自分の指で隠したまま撮っていた。
源さんが、日焼けした手で、ぱん、ぱん、と大きな拍手を送った。
お昼は、ござの上で重箱を広げた。
榊さんは、卵焼きを一切れ口に入れて、しばらく何も言わなかった。
「……甘い」
「坊ちゃんの、お好きな味ですので」
「知っている」
それから、もう一切れ取った。
隣のござの母親が、身を乗り出してきた。
「陽翔くんのところ、お父さん、背が高いのね。奥様のお弁当も、すてき」
私の手が、箸の上で止まった。
訂正しなければ。
家政婦です、と言わなければ。
「……ありがとうございます」
榊さんが、先に答えていた。
訂正もしないで、まっすぐな声で。
源さんが、水筒の茶を、わざとらしく音を立ててすすった。
隣の母親が自分のござに戻ると、源さんは、重箱の唐揚げを一つつまみながら、ぼそりと言った。
「去年の運動会は、若奥様が一人で来とった。旦那は仕事でな。わしは、門の外から見とっただけだ」
唐揚げを、ゆっくり噛んだ。
「今年は、ござの上で見られる。……長生きは、するもんだ」
*
午後の最後の種目は、年長組の親子競技だった。
子どもが真ん中で、大人と両手をつないで、園庭を半周走る。
ゴールテープは、三人で切る。
「おうちの方は、お一人か、お二人で」
先生の声に、陽翔は首を振った。
「りんさんと、おじさん。二人」
「陽翔くん、お父さんかお母さんは」
「りんさんと、おじさん」
陽翔は、私の手袋の手と、榊さんの大きな手を、両方とも握って離さなかった。
先生は、少し困った顔で、私たちを見比べた。
それから、笑った。
「……はい。陽翔くんのおうちは、お二人ですね」
スタートの笛が鳴った。
陽翔が、走り出した。
私の手と、榊さんの手を、一緒に引っぱって。
風が、スカーフの裾をはためかせた。
陽翔の足は、思ったより速かった。
榊さんは、歩幅を半分にして合わせていた。私は、ワンピースの裾を気にする暇もなかった。
周りの家族を、一組、二組と追い抜いた。
ゴールテープが、近づいてくる。
「りんさん、はやく!」
陽翔が、振り向いて笑った。
歯の抜けた隙間が、まっすぐに私を見ていた。
テープが、胸に当たった。
その瞬間、足がもつれた。
体が、前へ傾いた。
地面が、近づいてくる。
腰に、腕が回った。
片腕だった。
榊さんは、もう片方の手で陽翔の手を握ったまま、片腕だけで、私の体を胸の前に抱きとめていた。
「危ない」
耳のすぐ上で、低い声がした。
セーターの毛の匂いがした。
腰に回った腕が、少しも揺れなかった。
「……足は」
「平気、です」
「本当に」
「本当に」
答えたとたん、おかしくなった。
ゴールテープが首に絡まった陽翔が、ぴょんぴょん跳ねていた。
源さんが、ござの上で立ち上がって、両手を振っていた。
榊さんの眼鏡が、少しずれていた。
私は、声を出して笑った。
喉の引きつれが、ん、と鳴った。
咳にならなかった。笑い声のほうが、先に外へ出ていった。
「……笑った」
榊さんが、眼鏡を直しながら言った。
腰の腕は、まだ離れていなかった。
「一等賞です。坊ちゃんの」
「ああ」
榊さんは、ようやく腕をほどいた。
それから、私にだけ聞こえる声で言った。
「あなたが声を出して笑うのを、初めて聞いた」
*
帰り際、園の門のところで、陽翔が急に立ち止まった。
ぴょんたを抱いて、門の外を見ていた。
門柱の陰に、日傘が一本、立っていた。
白い麻の日傘。
その下に、灰色の色無地。背筋の、異様にまっすぐな人。
お義母さまだった。
人の多いところは、肩に障る。
朝、そう言った人が、いつからそこに立っていたのか。
お義母さまは、陽翔を見ていた。
それから、私を見た。
さっきまで声を出して笑っていた、私の顔を。
榊さんが、私の半歩前に出た。
お義母さまは、榊さんを見なかった。
日傘を少し傾けて、私だけを見た。
「佐伯さん」
「……はい、大奥様」
「明日の親族会議、お茶は、あなたが出しなさい」
白檀の扇子が、帯のあいだで、かすかに鳴った。
「……全員の前でね」
コメント
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もう第57話、読み終えたよ…😭💦💦 運動会のシーン、凛さんの「家政婦」って続柄に書くところからもう胸がぎゅっとなったよ…。でも先生が「甘い卵焼きのお弁当」って覚えててくれたのが唯一の救いで泣けた。陽翔くんが「りんさんと、おじさん」って言い張って、親子競技で3人手をつないで走る場面、もうダメだった…走馬灯のように込み上げるものがあって、涙腺崩壊したよ。 榊さんの「あなたが声を出して笑うのを初めて聞いた」ってセリフ、何このエモさ…!!😭💕 最後のお義母さまの登場、「明日の親族会議、お茶はあなたが出しなさい…全員の前でね」って展開、これは次回がやばそうすぎる…!続きが気になって夜しか眠れないよ〜🔥🔥