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#王子
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宮殿での生活が始まってから、早いものでひと月が過ぎていた。
当初の、喉を突き抜けるような緊張感はどこへやら。
今ではアイゼン様と過ごす夜は、私にとってこの世界で唯一、呼吸が深くできる「安らぎ」の時間に変わっていた。
あの日、冷たい雨の路地裏で死神に魅入られたような顔をしていたアイゼン様は驚くほど健康を取り戻していた。
鋭すぎた眼光は穏やかさを湛え
目の下に刻まれていた絶望のような隈も、今では跡形もなく消え去っている。
冷徹な皇帝として全土から恐れられる彼が、私の前でだけ、ふっと氷が解けるように見せる微笑み。
寝入り際、まるで壊れ物を扱うように私の髪を大きな手で撫でてくれる、あの優しさに満ちた仕草。
「出来損ない」として、実家の薄暗い物置小屋で息を潜めていた私が
ここでは確かに「ひとりの人間」として必要とされている。
その温かな実感が、モノクロだった私の世界を、鮮やかで色彩豊かなものへと塗り替えていた。
けれど、そんな幸福な日々に、不意に影が差した。
鉄人かと思われたアイゼン様が無理な公務の蓄積がたたったのか
激しい風邪をひいて寝込んでしまったのだ。
「アイゼン様、失礼いたします。お加減はいかがですか?」
重厚な黒檀の扉を、音を立てないよう静かに押し開ける。
寝室の中には、香草の匂いと、病特有の重く熱い空気が澱んでいた。
天蓋付きの広大なベッドの主は
いつもは隙のない黒髪を枕に散らばらせ、頬を林檎のように赤く染めていた。
「……ノエルか。来るなと言っただろう。お前に…移したくない」
掠れた、今にも途切れそうな声。
私を遠ざけようとするその言葉とは裏腹に、彼の瞳は助けを求めるように揺れていた。
私はあの日を思い出した。
彼はいつだって、孤独な闇の中でたった一人
誰にも悟られぬように痛みに耐えてきたのだ。
「そんなこと言わないでください。私、アイゼン様の看病をしたいんです。……いいえ、させてください」
頑なな彼を説得し、私は甲斐甲斐しく濡れタオルを替え、滋養のあるスープを運んだ。
心配して訪れた騎士団長のカイル様や宰相のハルトマン様も
私の手際と、何より私を前にした陛下のどこか安堵したような様子を見て
「陛下はノエル様に任せるのが一番の薬のようですね」と、私に託してくれ、静かに部屋を後にした。
◆◇◆◇
夜が更け、深い静寂が宮殿を包み込む頃。
少しだけアイゼン様の熱が落ち着いたようだった。