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北方の草原に、最初の騎馬が現れたのは夜明け前だった。
霧が低く地を這う刻限。
見張りの兵は、それを最初ただの影だと思った。
春先の草原では、夜明け前に獣の影が現れることがある。狼か、野犬か、霧に惑わされた目の錯覚か。
だがその影は丘の上で止まった。
一騎。
黒い馬。
黒い外套。
長い槍。
騎兵は南を見ていた。
まだ見えぬ先にある小国――
グラツィア王国を。
やがて霧の中から二騎目が現れる。
三騎。
五騎。
十騎。
影は増え続けた。
まるで草原そのものが黒い騎馬を吐き出しているようだった。
やがて旗が立つ。
黒地に銀の紋章。
ヴァルガルド帝国。
角笛が鳴った。
腹の底まで沈み込む低い音が霧を震わせる。
丘の向こうから騎兵の列が現れ、さらにその後ろから歩兵、荷車、工兵が続く。鉄鎧が擦れ合い、轡が鳴り、馬の吐く白い息が霧と混ざる。
三万。
兵の列は丘を覆い、草原を黒く染めながら南へ進み始めた。
戦雲は静かに――
グラツィア王国へ迫っていた。
北方国境、ラド砦。通称北の砦。
石壁は低く、城塞としては小さい。だが北の街道を絞る位置にあり、侵攻軍を最初に受け止めるには十分だった。
砦将ローガンは霧の中の黒い影を見て、奥歯を噛みしめた。
「……多いな」
副官が喉を鳴らす。
「三十……いえ五十……もっといます」
丘の上に並ぶ騎兵は動かない。
黒い馬。
黒い鎧。
黒い旗。
霧の向こうから、さらに数を増やしていく。
「伝令は出したか」
「王都へ二騎」
ローガンは頷いた。
「ならいい。少しでも時間を稼ぐ」
兵たちが弓を構える。
震える手で弦を引く者もいた。彼らは精鋭ではない。辺境守備の兵であり、農閑期の徴募兵も多い。
だが逃げる場所はない。
「構え!」
黒騎兵がゆっくり前へ出た。
その動きは整いすぎていた。
まるで一つの生き物のようだった。
「放て!」
矢が飛ぶ。
霧を裂き、黒騎兵へ降り注ぐ。
一騎が揺れる。
二騎が落ちる。
だが列は乱れない。
空いた場所へ後列が滑り込む。
その瞬間。
黒騎兵の先頭が槍を上げた。
次の瞬間、突撃が始まる。
馬蹄が地を打つ。
黒い波が砦前の外柵へ襲いかかる。
轟音。
木柵が砕ける。
砦兵が悲鳴を上げる。
だが敵は乗り越えない。
柵を破壊しただけで、黒騎兵は列を整え後退した。
霧の向こうへ消えていく。
残されたのは、壊れた柵と数人の死傷者だけだった。
副官が呟く。
「……なぜ」
ローガンは北を見た。
「試されたんだ」
「砦の強さを?」
「違う」
ローガンは言った。
「儂たちの心をさ」
大陸北方。
長い冬と灰色の空に覆われた土地がある。
ヴァルガルド帝国。
この国の大地は痩せている。
冷たい風が吹きつけ、穀物は育ちにくい。
冬は長く、春は短い。
だが近年、この北方の地に新たな富が見つかった。
山脈から掘り出される鉄と銀。
そして広大な森林から得られる木材。
鉱業と林業。
それらの発展によって北方には多くの人が集まり、
荒れた土地には新しい町が生まれていった。
しかし北方の民は、長く一つの国家を持たなかった。
厳しい自然の中で生きる彼らは気性が荒く、誇り高い。
多くの部族が存在し、互いに争いを繰り返してきた。
血で血を洗う部族戦争。
同盟と裏切り。
終わりのない抗争。
北方は長く、まとまりのない土地だった。
だがそこに一人の男が現れる。
アルドリック・ヴァルガルド。
戦場で名を上げた北方の英雄。
部族の争いの中で勢力を拡大し、
ついには北方民族の統一に乗り出した。
征服。
同盟。
そして服属。
長く分裂していた北方は、
ついに一つの旗の下に集まる。
こうして誕生したのが
ヴァルガルド帝国である。
だがアルドリックは、さらに大胆な決断を下す。
新しく生まれた帝国の制度を
ある流浪の男に委ねた。
その男の名は
ククス・ゼイオン。
部族の出でもなければ貴族でもない。
ただ各地を放浪し、戦争と国家を観察してきた男だった。
アルドリックの信任を得たゼイオンは
帝国の制度を一から作り直した。
そして――
三年。
わずか三年で北方の国家は姿を変えた。
部族の掟は廃され、
各部族の軍は解体された。
代わりに作られたのは
軍団制。
兵は部族ではなく国家に属し、
将は皇帝の命によって任命される。
徴兵制度。
補給制度。
軍事道路。
すべてが皇帝の名のもとに統一された。
北方の戦士たちは、
もはや部族の兵ではない。
帝国軍団。
こうしてヴァルガルド帝国は
大陸最大の軍事国家となった。
やがてアルドリックが世を去ると、
帝位はその後継者へと受け継がれる。
新たな皇帝。
セヴェリウス・ヴァルガルド。
彼は父王の築いた帝国を継ぎ、
北方の統一国家を完成させた。
そして北方の統一が終わったとき、
帝国の視線は一つの方向へ向けられる。
南。
豊かな平野。
穏やかな王国。
実り多い穀倉地帯。
グラツィア王国。
セヴェリウスは決断する。
北方を統一した帝国は、
次に大陸を統一する。
こうして帝国軍団は動き出した。
黒旗の軍勢が、
南へと進軍を開始したのである。
ヴァルガルド帝国軍の陣は、草原の中央に広がっていた。
三万の軍勢。
黒い旗。
黒い鎧。
黒い騎馬。
兵の列は丘を埋め、地平線の向こうまで続いている。
その中心に、ひとつだけ小さな天幕があった。
豪華ではない。
むしろ粗末だった。
その中に、一人の男が座っている。
ククス・ゼイオン。
ぼろの外套をまとった男だった。
机の上には地図が広げられている。
彼はしばらく黙ってそれを見ていた。
やがて指先で、一か所を軽く叩く。
「グラツィア王国」
静かな声だった。
周囲の将軍たちが顔を見合わせる。
「小国です」
一人が言う。
「兵は一万に満たず、軍の統率はわが国には及びませぬ」
「三万の我が軍の前では、三日と持たぬでしょう」
ゼイオンは地図から目を離さない。
「三日か」
そして、小さく笑った。
「長いな」
将軍たちが苦笑する。
そのときだった。
天幕の布をめくり、伝令が駆け込んでくる。
「報告!」
息を荒げたまま叫ぶ。
「グラツィア国よりの詰問状が!」
「送り主の名はなんと?」
「サイラス・イシル!」
ゼイオンの指が止まった。
天幕の空気が、わずかに変わる。
「……サイラス?」
ゼイオンはゆっくり顔を上げた。
細い目が、わずかに細められる。
「グラツィアにいるとはきいていたが」
将軍が尋ねる。
「ご存じなのですか」
ゼイオンは少し考えたあと、答えた。
「昔の弟子だ」
ざわめきが走る。
「弟子!?」
「敵軍の軍師か、なにかで。」
ゼイオンは肩をすくめて笑った。
「優秀だった」
少しだけ間を置き、
「優しすぎたが」
将軍の一人が言う。
「では問題ありませんな」
「すぐに踏み潰しましょう」
ゼイオンは首を振った。
「いや」
そして地図の上を指でなぞる。
「面白くなる」
「……え?」
ゼイオンは言った。
「三万の軍がある」
「だが」
グラツィアの位置を指で叩く。
「彼は、兵ではなく人を動かす男だ」
沈黙。
ゼイオンはゆっくり立ち上がった。
外では黒騎兵が整列している。
旗が風に鳴る。
ゼイオンはそれを眺め、静かに笑った。
「戦とは」
ぽつりと言う。
「人の本性が出る場所だ」
そして呟く。
「楽しみだ」
「サイラス」
書状は一蔑も無く捨てられた。
その目には、恐れも怒りもなかった。
ただ――
獲物を見つけた狩人のような、
純粋な期待だけがあった。
大陸中央位置する
グラツィア王国
この国は、良くも悪くも典型的な中世の王国だった。
王都には王が座し、
その下には多くの領主がいる。
だがその支配は決して強いものではない。
各領主はそれぞれの城と兵を持ち、
自領においてはほとんど小さな王のように振る舞っていた。
税も、兵も、法も。
多くのことが領主の裁量に委ねられている。
王が命じ、
領主が従う。
その形はある。
だが実際には、王国は多くの領邦のゆるやかな集合体に近かった。
数代前、王家はこの体制を改めようとした。
王国直轄領を中心に、
国防、外交、貿易を王権のもとに集める改革。
常備軍の創設。
関税の統一。
街道整備。
だがそれは領主たちの反発を招き、
改革は半ばで止まった。
制度だけが残り、
力は伴わない。
それが現在のグラツィア王国である。
土地は豊かだった。
中央平野では小麦が実り、
北方に近い土地では芋が育つ。
南へ行けば温暖な気候のもと、
葡萄や果実が多く収穫された。
王国を横断する街道には都市が並び、
商人と旅人が行き交う。
豊かで、穏やかな国。
そしてこの王国が長く独立を保ってきた理由は、
必ずしもその強さではなかった。
むしろ――
領主たちの勝手な外交である。
ある者は帝国と友好を結び、
ある者は南方と婚姻を結び、
またある者は商人国家と貿易を行う。
王国としての外交は弱くとも、
領主たちの関係が複雑に絡み合い、
結果として国家間の軍事バランスを保ってきた。
誰もが、この国を本気で攻める理由を持てなかったのだ。
しかしそれは同時に――
危機を直視しない国でもあった。
豊かな畑。
安全な街道。
賑わう市場。
長く続いた平和は、
人々から戦争の現実を遠ざけていた。
そして今。
その平和は、終わろうとしている。
北方から
黒旗の軍が進んできていた。
同じ夜。
グラツィア王都。
城壁の上で一人の青年が夜空を見ていた。
サイラス・イシル。
王国の軍師である。
濃紺の長衣をまとい、石壁にもたれる。
右袖は空だった。
夜空を流れ星が横切る。
長い尾を引き、ゆっくりと落ちていく。
「思ったより進軍が早いのかな」
その時。
背後から足音。
「軍師殿!」
兵が息を切らして駆け込む。
「北の砦より急報!ヴァルガルド帝国軍、進軍確認!」
「兵数は」
「三万!」
サイラスは空を見上げたまま言った。
「そうですか」
それから振り向く。
「陛下へ。軍議を」
朝。
王都は混乱していた。
「帝国軍だ!」
「三万!」
「城門が閉まるぞ!」
市場は大混乱だった。
荷車が道を塞ぎ、民衆が押し合い、兵が押し返す。
サイラスは石段へ上がる。
「静かに」
その一言で空気が揺れる。
人々が振り向く。
細い青年。
鎧も着ていない。
右腕のない軍師。
ざわめきが起きる。
サイラスは静かに言った。
「三万の軍が王都へ来るまで、少なくとも十日はかかります」
人々が顔を見合わせる。
「つまり」
「今ここで押し合って死ぬ必要はありません」
数人が思わず笑った。
恐怖が一瞬だけ形を失う。
「この国には軍があります」
遠くでガイロが腕を組む。
「将軍も」
兵が背筋を伸ばす。
「そして」
サイラスは言った。
「軍師もいます」
その言葉に、群衆の空気が少し変わった。
恐怖の中に、理屈が戻ってくる。誰かが、まず考え始める。考え始めた人間は、すぐには暴れない。
「どうするんだよ」
女が聞いた。
「それは今からの軍議で決めます」
サイラスは答える。
「ですから皆さん、今は家に帰ってください。水を汲み、戸を締め、三日分の食べ物を確かめる。それが今できる一番ましな行動です」
沈黙のあと、年寄りの男がぽつりと言った。
「……まあ、そうだな」
そこから崩れるように、人の流れが変わった。
まだ不安は残っている。だが押し合いは止まり、叫び声が消え、兵たちの顔からも露骨な焦りが抜ける。
ガイロが石段を上がってきた。
「……口が達者だな」
「そうでしょうか」
「戦えないくせに」
「はい」
サイラスはあっさり頷いた。
「戦えません」
ガロスの視線が右袖へ落ちる。サイラスはそれを隠さない。
「だから、戦わせない方法を考えます」
ガロスはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「気に食わんが……今のは悪くない」
「で、軍師様は帝国が侵入するまで何もしなかったわけじゃないですよね?」
ガイロが横目で聞いた。
「もちろん」
サイラスは歩きながら指を折る。
「エスカミオには保険をかけてある」
「保険?」
「戦争保険」
「支払いは穀物輸出権、街道通行権、銀鉱採掘権」
「その代わり」
「エスカミオから帝国への輸出は、戦争が始まった瞬間に止まる」
ガイロが低く唸る。
「……今ごろ商人どもは大騒ぎだな」
「でしょうね」
サイラスは肩をすくめた。
「それから帝国北端の反体制部族には、先月武器と資金を送っています」
「内乱を起こさせる気か」
「気が向けば」
「国内の三つの砦にはいつでも動けるようにと伝えてあります」
ガイロは黙った。
それからふと聞く。
「スカーレットは?」
サイラスは少しだけ視線をそらした。
「……あそこ苦手なんですよね」
「は?」
「見つかると怒られそうで」
ガラス窓の向こう、港には荷車が並んでいた。
帝国向けの積み荷――鉄、塩、干し肉。
だが今、商館の中は静まり返っている。
机の上に、一枚の契約書。
カルロがそれを指で叩いた。
「……おい」
隣の男を見る。
「こんな書類に俺、ハンコ押したか?」
商人たちが顔を見合わせる。
沈黙。
一人が青い顔で言った。
「……押してます」
「いつだ」
「先月です」
「俺いなかったじゃねーか」
「ククルースさんが親分しばらく帰ってこないから
俺が後で報告するからって
戦争なんておこりゃしないよ
丸儲けだって」
「誰が持ってきた」
「グラツィアのえらい役人だかなんだか」
カルロの眉が跳ねた。
契約書をめくる。
そして固まる。
「……やられた」
「え?」
「まだ1ディナールももらってないのに」
指で条文を叩く。
「これ」
「莫大な違約金が発生するぞ」
商人たちがざわめく。
「どうするよ、これ」
「外交文書つきの契約だぞ」
「違約金払ったら商会が吹き飛ぶ!」
カルロが舌打ちした。
「ちっ」
そして叫ぶ。
「まず止めろ!」
「帝国向けの荷を全部止めろ!」
「今すぐだ!」
「港も街道も封鎖しろ!」
商人たちが慌てて走り出す。
部屋に残ったカルロは、契約書をもう一度見る。
条文は完璧だった。
穴がない。
商人の契約としては――
あまりにも綺麗すぎた。
カルロは笑った。
「……面白い」
椅子にもたれる。
「こんな契約を滑り込ませてくる奴」
「ただの商人じゃない」
紙を指で叩く。
「でもいろいろ権利譲渡するって契約でしょ?」
部下が反論する。
「王国が負けちまったらただの紙切れだ」
「勝ったら・・・」
カルロは窓の外を見た。
北の空。
「……興味が出てきたな」
そして呟く。
グラツィア王国の軍師サイラス・イシルの署名と印
に目を落として
「おいっ滅びる国の軍師よ、国王印がねーぞ
お前が死んだらチャラかよ」