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「ねえ、画家さん」
数日後の午後、買い物帰りにばったり出くわした藤澤がそう呼んだ。
「ん?」
「モデルとか、興味あります?」
「は?」
唐突な質問に、大森は思わず眉をひそめた。
「僕の大学で、人物クロッキーの授業があって学外の人がモデルでもいいって先生が言ってたんです。興味あったら、と思って」
「……俺が描くの?」
「ううん、違う。描く方じゃなくて、描かれる方。画家さん、背高いし、立ち姿きれいだから、もしかしたら…って」
大森は返答に詰まった。
大森にとってモデルは見る側であって、まさか自分が描かれる側になるとは思ってもいなかった。
「……藤澤、俺のこと名前で呼ばないの?」
藤澤はぽかんとした顔で、大森を見上げた。
「え?」
「俺、“画家さん”じゃない。大森」
「あ、……あっ」
藤澤はたちまち顔を赤くした。
「すみません、大森さん。でもなんか、あの、あの時まだ自己紹介してなかったし……呼んでいいか迷ってて……」
「名前、ちゃんとあるんだから使って」
「……大森、さん」
もじもじと名前を呼ぶその声がやけにやわらかく響いた。その瞬間、ほんの一瞬だけ大森の胸の奥に何か甘いものが落ちた。
「で、モデルの話だけど」
「うん」
「悪いけど、描かれるのは向いてない。描く方でいたい」
藤澤は一瞬がっかりしたような顔をしたが、すぐに頷いた。
「そっか、だよね。でも絵、好きなんだね」
その言葉に大森の足がぴたりと止まった。
「どうしてそう思った」
「だって、目が変わった。断る時」
大森は驚いて藤澤を見た。藤澤はにこっと笑って、小さく肩をすくめた。その一言が心の奥に残っていた冷たい氷を、少しだけ溶かした。
「今日アトリエ、来る?」
そう言った自分に、大森自身が一番驚いた。
藤澤は目を見開いて、それからほんの少し照れたようにうなずいた。
「……うん。行く」
風が、ふたりの間をすり抜けていった。
その風に混ざって、ほんの少しだけ梅雨の気配が近づいていた。
_____________
「……うわあ」
アトリエに足を踏み入れた瞬間、藤澤の口から小さな感嘆の声が漏れた。
木の床はところどころ絵の具の跡が残り、壁際には大小さまざまなキャンバスが立てかけられている。
どこか生活感があるのに、きちんと整理された空気がなんだか「大森らしい」と藤澤は思った。
「靴、脱いだ方がいいですか?」
「どっちでも。気になるなら脱げば?」
「じゃあ、脱ぎます」
藤澤はぺたんとその場に座り込み、靴下のまま部屋に上がり込んだ。その動きが妙に無防備で、大森は思わず目をそらした。
(猫か?)
「これ、全部大森さんが描いたんですか?」
「まぁね。古いやつばっかだけど」
「すごい…!なんていうか、空気が入ってるみたい」
「は?」
「色とか構図とか、もちろんすごいけどそれより描いてた時の音とか、匂いとか、そういうのが絵に残ってる感じ。伝わってくる、気がします!」
藤澤はキャンバスの前で立ち止まり、そっと手を伸ばしかけて…すんでのところで触れるのをやめた。
大森はそれを黙って見ていた。
触れないのに、ちゃんと「届いている」ことがやけにうれしかった。
「奥、見てもいいですか」
「うん」
言いながら、大森はふと一枚のカバーを外しかけて手を止めた。
それは――何日前、無意識のうちに描いていた絵。白いTシャツにくしゃくしゃの髪、ベランダで笑っていた、間延びした顔の青年。
つまり、藤澤だった。
「これ、なんの絵ですか?」
いつの間にか近くにいた藤澤にそう問いかけられた。
「これ、見られるのちょっと、恥ずかしいかも」
「え? なんでです?」
「モデルに許可取らずに描いたから」
大森はそっとカバーを外した。
「もしかして僕、ですか?」
大森は少し照れ臭そうに、だが隠すこともせずにうなずいた。
藤澤は、絵を一度見て、それからもう一度見て、ゆっくり口元をほころばせた。
「……なんか、僕より僕っぽい」
「どういう意味だよ」
「僕、こんな顔してたんですね。自分の顔ってよくわかんないから」
「気に入らなかったら描き直すけど」
「いえ、気に入りました」
そう言って藤澤は、大森の方を見てにこっと笑った。
「モデル、ちゃんとやりますよ。今度は完璧に」
「本当かよ」
「うん。だって、大森さんが描いてくれるならなんか、安心する」
その一言に大森は言葉を失った。
(安心って。……そんな顔で言うなよ)
ほんの少し、藤澤が遠くに行ってしまいそうな気がして、ほんの少し、もっと近くに引き寄せたくなった。
「じゃあ、明日。午前中から空いてる?」
「はい。予定、空けときます」
アトリエの空気が、ほんの少しあたたかくなった気がした。外はまだ梅雨の匂いが漂う気配はない。
でも確実に――ふたりの関係は静かに湿度が増していた。
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