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白山小梅
12
#借金
1,754
* * * *
仕事場に出勤してからも、昨夜の瑠維との会話を思い出しては胸が苦しくなる。
ぼんやりと準備をしている間に、デパートの開店時間を知らせる放送が流れ始めた。慌てて客を迎えるためにカウンター前に立つと、一目散にこちへやってくる女性の姿が目に入った。
「おはよう、佐倉ちゃん!」
「斎藤様! いらっしゃいませ。今日はお早いんですね」
「これから出かけなくちゃいけなくて。でも昨日来たら佐倉ちゃんがお休みだったから」
「えっ、わざわざ私に会いに来てくださったんですか?」
「そりゃそうよ! じゃあいつものスキンケア一式をお願いしてもいい?」
「はい、もちろんです。今から準備しますね」
春香は斎藤をカウンターまで案内すると、カルテを確認しながら化粧水、乳液、美容液を棚から取り出す。
しかしどこかそわそわした様子で座っているのを見て、彼女が急いでいることがわかった。ふと見てみれば隣の席には大きな旅行カバンが置いてあり、これから出かけるのは確かなようだ。
「これからどこか行かれるんですか?」
「そうなの。娘が今日の午後から出産のために入院するから、上の子のお世話を頼まれちゃって」
「そうだったんですか! それは急がないと」
春香が慌てて商品の確認をしようとするのを、斎藤は笑いながら制した。
「あぁ、そんなに慌てなくて大丈夫なの。快速に乗って行けば一時間くらいで着くし」
「でもお孫さんが生まれるのなら、もう少し近い方が嬉しかったりしますか?」
「それがそうでもなくて。あまりお世話ばっかりだと疲れちゃうし、これくらいの距離感が意外と楽だったりするのよぇ」
会計作業を済ませて商品を袋に入れていく。斎藤の本音を知り驚きつつも、彼女らしさも伝わってきてクスリと笑ってしまう。
「それに引っ越しを決めたのはあの子の方だし。彼のそばにいたいんですって。住む場所の問題じゃなくて、一緒にいることが大事だからって」
住む場所じゃなくて、一緒にいることーーそれをすぐに決断できた娘さんは本当にすごいと思った。
商品の入った袋を手にして、店先まで見送りに行く。
「佐倉ちゃんも一度遊びに行ってみたら! 海が近くてすごくいいところよ〜」
その時彼女がふと口にした地名。それは瑠維が家を購入したという場所だった。
「斎藤様の娘さん、あの街に住んでいるんですか⁈」
春香は驚き、つい大きな声を出してしまう。
「あら、行ったことあるの?」
斎藤がにこやかにそう言ったが、春香は返事に困って苦笑いをする。
「い、いえ……友人に遊びにおいでと誘われていて……」
「あの辺りに住んでいるお友達がいるの? じゃあきっと娘と知り合いかもしれないわね!」
いまさら後には引けず、とりあえず笑顔でやり過ごすことにする。
「最近は若い方の移住が多くて、新しいお店が出来たりして結構栄えてるのよ。でも少し山寄りになると閑静な住宅地でね、セキュリティもしっかりしたマンションが増えてるんですって。夏は花火大会も夏祭りもあるし、漁港が近くにあるから魚も安くて美味しいわよ」
意気揚々と話す内容を聞いていると、その街に行ったことがある人だからこそ知る街の姿を知り、春香は不思議とわくわくした。
瑠維にホームページを見せてもらった時とは違い、行ってみたいと思えてきたのだ。
「素敵な街なんですね。知りませんでした」
「私も娘が引っ越すまでは知らなかったんだけどねぇ。百聞は一見にしかずとはよく言ったものだわ。まだまだ自分の知らない場所があるんだって教えてもらえたから」
「確かに……私も自分の周りのことしか知らない気がします」
異動をするにしても、つい自分が住む街や暮らしてきた場所を想定していることが当たり前のように思っていた。この職場に配属された時も、よく学生時代に遊んだ場所だからと安心していたのだ。
でも学校や仕事によって、何も知らない土地で新しい生活を始める人だっている。それなのに当たり前を自分で決めてしまっていた。
慣れ親しんだ場所を離れるのはやはりどこか不安もあるけれど、もしかしたらその地で待っている新しい出会いや可能性があるかもしれない。
それを逃してしまうのって少しもったいないかもしれないーー春香の中で前向きな気持ちが生まれ始めていた。
「そうそう。意外と"住めば都"かもしれないしね。じゃあまた来るわね!」
「はい、本日もありがとうございました! お気をつけて」
春香に向かって手を振る後ろ姿を見送りながら、先ほどまでとは全く違い、心が晴れやかに澄み渡っている気がする。
斎藤の話を聞いていると、一度行ってみたくなった。もしかしたら自分にとっても"住めば都"かもしれない。
瑠維くんは私から離れたくないと言ってくれた。それは私も同じ気持ち。でも本当は買った家に引っ越したいはず。それなのに彼は私の勤務地に合わせて一緒に住もうと言ってくれた。よく考えたら、私にばかり合わせるのもおかしな話。
今大切にしたいのは何だろうーー春香は自分の心に問いかける。瑠維との関係はもちろん、仕事だって続けたい。
どちらかが我慢をするんじゃなくて、お互いを尊重出来るような選択するにはどうしたらいいのだろう。
その時春香の頭にはある考えが浮かんでいた。店長の出勤したら相談してみよう。
足取りが軽くなり、満面の笑みで店内に戻った。
* * * *
昼休憩の時間になり、春香はロッカールームに戻る。案の定そこには店長の瞳が出勤の準備をしているところだった。
「店長、おはようございます」
「あぁ、佐倉さん、おはよう。これからお昼?」
「そうなんですけど……少しお話があって」
瞳は目をパチリと開いて春香を見ると、何かを察したかのように微笑んだ。
「異動のこと?」
「はい。まだ間に合うのなら勤務地の希望を変更したくて」
「むしろこの辺りでは空きがなくて保留になっていたのよ。だからまだ大丈夫だと思う。どこがいいのかしら」
間に合ったことに安堵した春香は、瑠維の新居がある地名を口にした。すると瞳は驚いたように身を見開いてから、ニヤリと笑う。
「年下くんと何かあった?」
瞳にはお見通しだったようで、春香は頬を真っ赤に染めて俯いた。
「あのっ……実は一緒に暮らそうと言われまして……」
「ほうほう。でもどうしてこの地区なの?」
「彼が以前に購入した家がこの地区なんです。今はリフォーム中で、いつかはそこに引っ越すようなので、それなら私もーー」
「ん? ちょっと待って。買った家で同棲ってこと? それだけ? プロポーズをされたわけじゃないの?」
「えっ⁈ ち、違います!」
春香の慌て振りから、それが事実であることは伝わってる。しかし瞳は苦笑いをしながら、春香の肩を叩いた。
「結婚するわけじゃないのに、こんな遠くに異動になっても大丈夫なの?」
瞳が言いたいことはわかる。恋人の延長線上にある同棲という関係。いつ終わるかもしれないもののために、今の地を離れる意味があるのかと問われているようだった。
「不安がないと言えば嘘になりますが、やっぱり今は彼といたいんです。それに……これは私の勝手な願望ですけど、これが最後の恋になるといいなぁという希望も込めてます」
「そっか。佐倉さんの中では意思が固まってるのね」
「はい」
「それなら早速希望を出しましょう! いいところが早く見つかるようにね」
「ありがとうございます!」
春香は満面の笑みで瞳に頭を下げた。決まるかどうかはわからないけど、一つの希望が見え始めた気がした。
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