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きなこもち
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#サレ妻
都築七美
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面会を終えて部屋を出た途端、一花はほとんど無意識のまま足を速めた。
背後から神崎に名前を呼ばれても、振り返ることができない。
頭の中を埋め尽くしているのは、ただ一人、西園寺牡丹の姿だった。
思い返すたび、胸の奥で膨らんでいた疑いが、焼けつくような怒りへ変わっていく。
「もし……」
足を止めないまま、一花の唇が震えた。
「もし、本当にあの人が……全部仕組んだんだとしたら……」
次の瞬間、一花は出口へ向かって駆け出そうとした。
「朝倉さん!」
神崎が咄嗟に追いつき、一花の腕を掴む。
「離してください!」
一花は勢いよく腕を引いた。
「朝倉さん、待ってください」
「離して! 確かめなきゃ……!」
神崎の手を振りほどこうともがくうち、それまで押し込めていたものが一気に溢れ出した。
「もし本当に、あの女がお母さんを……悠真を……!」
声が震え、視界が涙で滲んでいく。
「全部、あの女が奪ったんだとしたら……!」
すべては、あの夜に焼き尽くされた。
あの日を境に、一花の人生は何もかも変わってしまった。
それなのに牡丹だけが、何もかも手に入れたような顔で笑っている。
「私が……」
喉の奥が引きつるように震え、声が一度途切れた。
それでも、次に溢れた言葉を止めることはできなかった。
「私が、あの女を殺してやる!!」
「朝倉さん!!」
神崎が強い声で呼び、一花の両肩を掴む。
それでも一花は必死にもがいた。
「離して! 許せない……!」
「絶対に許せない!」
もう、感情を抑える余裕などなかった。
「お母さんを返してよ……!」
「悠真を返して!!」
叫ぶたびに、涙が次々と頬を伝っていく。
神崎は、そんな一花から目を逸らさなかった。
「その気持ちは、間違っていません」
一花の動きがわずかに止まる。
「もし、すべてが仕組まれたものだったなら、冷静でいられる人なんていない」
「私も、あなたと同じでした」
一花が顔を上げる。
普段は滅多に感情を乱さない神崎の目に、静かな、それでいて焼けつくような怒りが宿っていた。
「先生、も……?」
神崎は答えず、そのまま一花を見つめ返した。
「ですが、今あなたが西園寺牡丹のもとへ行って、彼女は罪を認めると思いますか」
一花の唇が震える。
「火事を仕組んだと証明できる証拠はありますか」
答えられなかった。
水野の言葉も、蝶のピアスも、三枝と黒崎の繋がりも、疑いを強めるものではある。
けれど、牡丹が火事を仕組んだと証明するものではない。
「証拠がないまま手を出せば、加害者になるのはあなたです」
その言葉に、一花の顔から怒りとは別の色が引いていく。
「そうなれば――悠真くんは、目を覚ました時に母親まで失います」
一花の身体から、ふっと力が抜けた。
眠ったままの悠真の顔が浮かぶ。
いつか、目を覚ました時。今度は、自分までそばにいなかったら。
「……じゃあ」
掠れた声が零れた。
「私は、どうしたらいいの……」
神崎は一瞬だけ目を伏せた。
何かを思い出すように、握った手へわずかに力がこもる。
やがて、一花をまっすぐ見つめた。
「真実を明らかにしましょう」
一花が顔を上げる。
「感情ではなく、証拠で」
神崎の声は静かだったが、その眼差しには強い意志が宿っていた。
「誰かのせいにも、偶然にもできないところまで、証拠を積み上げましょう」
「西園寺牡丹が、二度と逃げられないように」
一花は涙を流したまま、その言葉を聞いていた。
怒りは消えていない。
悔しさも、悲しみも、何ひとつなくなってはいない。
それでも今すぐ牡丹のもとへ乗り込むことが、自分の望む復讐ではないことだけは分かった。
怒鳴りつけるだけでは足りない。同じ痛みを与えるだけでも足りない。
牡丹がしてきたことを、すべて明らかにする。
誰かに罪を押しつけることも、知らなかったふりをすることもできないところまで追い詰める。
それが、自分のするべきことなのだ。
「……分かりました」
一花は頬に残る涙を手の甲で拭った。
「証拠を集めます」
春子のことも。悠真のことも。
奪われたものすべてを、なかったことになどさせない。
「私たちにしたこと、全部明らかにします」
これまで一花は、奪われるたびに傷つき、それでも耐えて立ち上がることしかできなかった。
けれど、もう違う。
今度は、こちらが追う番だ。
「絶対に――逃がしません」
その夜。一人の男が、スマートフォンに残った一花への中傷を眺めていた。
風俗勤務を捏造した投稿は、すでに否定されている。
それでも、完全に消えたわけではない。信じたままの人間も、面白がっている人間も、まだ残っている。
男はしばらく無言で画面を眺めていたが、やがて薄く笑った。
「……これ、まだ使えるかもな」
その指が、ゆっくりと画面を滑っていった。
コメント
1件
うわあ……第56話、すごかったです。一花の「♡♡♡てやる」って叫び、胸が潰れる思いでした。それだけ追い詰められて、怒りと悲しみが爆発するのが痛いほど伝わってきました。でも神崎先生の「感情ではなく、証拠で」という言葉にハッとさせられましたね。あの冷静な眼差しに、自分も「そうだ、正しい道はこれだ」と思えてくる。一花が涙を拭って「絶対に逃がしません」と言ったとき、読んでいて背筋が伸びるような気持ちになりました。最後の男の不気味な笑み……まだまだ波乱がありそうで、次が待ち遠しいです。