文化祭当日。朝の空気は緊張と興奮に包まれていた。
校門にはすでに来場者の列。男子校の文化祭とはいえ、近隣の高校や中学、保護者、地域住民など、来客は少なくない。なかには他校の女子生徒の姿もちらほら見える。
仁人と太智のクラスの出し物は 『不思議の国のアリスカフェ』。
教室の入口はアーチ状の飾りに覆われ、「Welcome to Alice’s Tea Room」と手書きの文字が揺れていた。
店内にはティーテーブルがいくつも並び、チェシャ猫や帽子屋、トランプ兵の装飾が細かく施されている。
そしてなによりも目を引くのは、看板アリス役──仁人だった。
白と青を基調にしたクラシックなアリスのドレス。金色のウィッグ、白いエプロン、リボン、ふわりと広がるスカート。
少し恥ずかしそうにしながらも、凛とした佇まいでお客を迎える仁人の姿に、来場者はもちろん、校内の男子生徒すらも目を奪われていた。
「えっ……あのアリス、ホントに男子?」
「やばっ!? 女の子にしか見えないって!」
「写真いいっすか!? インスタ載せていいですか!?」
「ええ~~!? 吉田くん!? めっちゃ美人やん!!」
案の定、廊下は大騒ぎだった。
客足が止まらず、クラスメイトたちも必死で接客に回る。
そんななか、教室で手伝いを終えた勇斗が、廊下からその様子を目にした。
(……やっぱ、すごいな)
一瞬、言葉を失いそうになった。
スカートが揺れるたび、笑顔が向けられるたび、仁人は「アリス」としての輝きを放っていた。
でも勇斗は知っている。
あの笑顔の裏には、人知れず緊張と不安を抱えていたことを。
(あれが“自分の力で立ってる”仁人……)
そう思うと、心が痛かった。
それでも。
──だから、好きなんだ。
カフェに入ることはできなかったが、 廊下から少しだけ目を離さずに見つめることで、今の自分にできる精一杯の「好き」を伝えたかった。
教室の中──。
仁人は、客を迎えながらも時折、勇斗の視線に気づき入口のほうに向けた。
太智が近くに来て、仁人の耳元でささやいた。
「よぉ似合ってるで、アリス」
その言葉に、仁人は思わず笑ってしまった。
「ありがと、だいちゃん」
──少しずつ、少しずつ、変わっていく。
過去の記憶と、現在の気持ち。
そして、これからの未来。
仁人の中でそれらが重なり、ようやく“今の自分”として形を成し始めていた。
昼過ぎのピーク。
『不思議の国のアリスカフェ』も満席が続き、クラスメイトたちは交代で休憩を取りながらの接客を続けていた。
「じんちゃん、おつかれさん。ちょっと休も」
太智が控えスペースから顔を出して、仁人に声をかけた。
「うん、ありがとう」
カーテンで仕切られたスペースに入ると、ミニサイズのサンドイッチと紅茶が用意されていた。 いかにも“アリス”っぽいティーセットだ。
「だいちゃんが準備してくれたの?」
「ま、うちもアリスのカフェ実行委員やからな。じんちゃんの好きそうな紅茶、こっそり選んだんやで」
太智がちょっと得意げに笑う。仁人はふっと笑って、紅茶を一口飲んだ。
「あ……これ、好きなやつ。ミルク入れてくれてるんだね」
「せやろ。覚えてたんや、昔もじんちゃんいつも“お砂糖ひとつ、ミルク多め”って言うてた」
「……あの頃のこと、たくさん覚えてくれてるんだね」
「忘れるわけないやん。うちにとって、じんちゃんは──」
言いかけたとき、控えスペースのカーテンが音もなく開いた。
「……邪魔、した?」
そこにいたのは勇斗だった。
仁人も太智も驚いたように視線を向けた。
けれど、勇斗は変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
「先生に声かけて、クラス抜けてきた。ここのカフェ、大評判だし、行列すごいから、どうしてもアリスに会っておきたくて」
「……はやと」
仁人の声が小さく揺れる。
太智は立ち上がり、軽く頭を下げた。
「うちは、ちょっとだけ外の様子見てくるわ」
「だいちゃん……」
「平気や。仁人、話してき」
そう言って、太智は席を離れた。
残された勇斗と仁人。
アリスの格好のまま、仁人は少し落ち着かない様子で紅茶を持ち直した。
「似合ってるよ、アリスの格好」
勇斗の声は、あくまで優しかった。
でも、そこに込められた感情は、仁人の胸にじんわりと染みた。
「ありがとう……って、言っていいのかわからないけど」
「うん。ありがとうって言ってほしい。……俺、やっぱり好きなんだ、仁人のこと」
仁人は静かに視線を落とした。
「……僕、太智くんのことが好き」
勇斗は一瞬、息を飲んだように見えた。けれどすぐに、小さく笑った。
「ああ、知ってる」
「……ごめん」
「謝んなよ。仁人が俺に“ありがとう”って言ってくれたとき、ちゃんと伝わったから」
勇斗はそう言って、仁人の紅茶カップのそばに、ひとつの飴玉を置いた。
「これ、仁人が前に好きって言ってたやつ。高校入る前、一緒にコンビニ行ったとき、買ってたでしょ?」
「え、覚えてたの?」
「そういうとこ、ちゃんと見てたよ。……仁人に、俺の気持ちが届いてたらそれだけでいい」
その言葉と飴玉は、仁人にとって勇斗という存在の温度そのものだった。
「……ありがとう、はやと」
ふたりはしばらく無言のまま、ほんの少しだけ過去に戻ったような静かな時間を過ごした。
やがて勇斗が立ち上がり、カーテンの向こうへと歩き出す。
「また、いつでも来るよ。ティータイム、予約するから」
「ふふ、いつでもお待ちしてます、“お客様”」
そう微笑んだ仁人の笑顔は、ほんの少し、さっきより強くて、まっすぐだった。
そしてその笑顔を、勇斗はもう一度だけ、しっかりと胸に焼き付けて、カフェの外へと戻っていった。
──まだ、気持ちは終わっていない。
でも、ちゃんと踏み出したい。
アリスの世界の午後は、静かに、それでも確かに、過ぎていった。