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怜は走る。ボールを追い掛ける。周りを見ながら、それが届く先を夢中で考えている。
「怜!」
声を掛けられ、それがよく知っているチームメイトのものだと分かってホッとする。練習で何度もやったプレイを思い出す。走りながらボールを何度も運び、抜けるような広い空を時々見上げてみる。
………。
アルバイトの帰り支度を終えると、怜は自転車の鍵を外してそれに跨がる。
ポケットの中の携帯が鳴り、それを取り出す。
妹からだ。よくわからないスタンプが連打され、その後で「今日の夕飯バンプオブチキン」とメッセージが入っている。
それには返事をせず、携帯をポケットへ戻そうとすると、後ろから「サワグチくん」と声を掛けられる。
アルバイトの先輩の、峯崎さんだ。
峯崎はフリーターやバイトの取りまとめをしている主任で、30代も後半位の気の良い社員さんである。
「お疲れさま。高校、いつまで休み?」
怜は軽くお辞儀をし、「八月の25日までです」と応える。
「長いなー。そんなまとまった休み、気が遠くなっちゃうね。明後日から、バイト休暇だったっけ」
「そうです。…友達と、千葉に行く予定立てていて」
「へえ。千葉?」
怜は自転車にかけている足を一度組み替え、「はい」と返事をする。それを見ていた峯崎は「ごめん、引き留めちゃって。明日は出番だから、寝坊しないようにね。まあ、したことないか。
じゃあまたね」
そう言うと、返事を待たずにまた仕事場へと戻っていく。
その後ろ姿を見送った後で、怜は自転車を漕ぎ出す。
夏休みに入ってから既に二週間。怜は部活と慣れないアルバイトを行き来する生活をしていたが、未だユウに連絡を取って居ない。
帰り道、怜の通っている学校の前を通り過ぎようとしている時、不意に音が聞こえて来た。
練習してる。
吹奏楽部は大会の予定があったのか、夏休み初めは立て込んで練習をしていたようだったが、最近は暫く音が聞こえて来ることもなかった。
レンは暫し自転車を止めて立ち止まる。高い校舎の3階の音楽室の方を見上げている。
…いったい自分ていうのは何なのか。
夏休みに入ってから、怜はそういうことを考える事が何度かあった。
ユウからもらったメモは、あの後一人で開いて見てみると、キャラクターの柄入りの紙に綺麗な字でユウのLINEの連絡先が書いてあった。
怜は帰宅してからそのことを思い出し、一応スマートフォンを操作し、それにIDを入れてみた。ユウのいつも付けているキーホルダーの写真のアイコンが出て来たのでそれを登録し、あとはスマホを机に置きっぱなしにして眠ってしまっていた。
教科の二つ分を取った講習に出ている時、それから部活をしている時、時間が空くと何気なく怜の頭に浮かんでくるのは、笹岡に巻き込まれるようにして味わった共犯的なシーンだった。…怜にとってそれは何と呼んだら良いのかも分からないような妙な気持ちのままだった。
なんで、俺に。
翌日の数学講習の時間。
怜はくるくるとペンを回しながら黒板を見つめている。
授業とは違い、空いている席も幾つかある。その中でもだいたい前方に座り教師の話を聞いていた怜だが、三回転ほどでそれが指から転げ落ち、机の上に留まらずに床まで転げ落ちて行った。
あっという顔をして拾おうとすると、隣に座って居た女子がクスクス笑いながらそれを拾って差し出してくれる。
怜はためらいながらそれを受け取る。
「…ありがとう」
その相手の顔をチラリと怜は盗み見る。
ホモではない高校生の怜にとって、異性への欲情っていうのがどういう気持ちなのか分かっている。女の子の唇や、ちゃんと伸びた首筋、笑顔が向けられている時、それから…こういう匂い。それに興奮しなかった事なんてない。
セックスする事だって考えた事もある。怜のお気に入りの女子は、クラスの中でも一番優しい楠さんだった。
クラスで虐め騒動があった時も、最後までずっと渦中の子の悪口を言わなかったのが楠さんだったからだ。
「…」
「はあ〜。やっと終わった。」
講習が終わり、生徒たちはさっさと支度を終え帰る準備をしている。
「講習入るとさ、数学の山橋ってすごい張り切らない」
「分かる。授業より専門の知識かましたるぞみたいな」
「あれだ、水を得たさかな」
「…あ〜〜
誰が、着いて行けてるんだよ〜。」
数学の点数が赤点スレスレだった友人は机に突っ伏してぐしゃぐしゃの答案を掻き回している。それを見て怜も笑ってしまう。
「じゃあなー。」
「おう」
帰る支度を終えた怜は、友人に別れを告げ教室から出た。
今日は部活の練習も無く、アルバイトも無い日だったのですぐに帰ってしまおうと思っていたが、笹岡の教室の前を通る時になんとなくそちらの方を見る。
…居ないな。
講習受けてないのかな。アイツ。
思えば、怜は笹岡ともう二週間近く顔を合わせていない。
夏休みに入ってからというもの、吹奏楽部の練習をグラウンドに居る時に耳にする事はあったが、練習の時間も微妙にずれているようで怜自身は笹岡とは遭遇しなかった。
最後に会ったのは、あの電車で笹岡が無理やりくっ付いてきた時以来か。
「…ん。」
怜のスマホから音が鳴る。LINEのメッセージを受信したみたいだった。ポケットからスマホを取り出して見ると、ユウからのメッセージだった。
ー今なにしてる?
怜は立ち止まり、返事を打つ為にスマホを操作する。
ー講習終わったとこ。
メッセージを打ち終わり送信のボタンを押す。
顔を上げると、その時、廊下から見覚えのある人物が見えた。
笹岡だ。
こっちを見ずに、荷物を背負って歩いていた。笹岡は今、学校に着いたばかりみたいで、歩きながら髪の毛を手で混ぜるようにして直している。
笹岡は怜には気付いていない。登下校でいつも見るリュックと、何かを手に持ったまま自分の教室に向かって歩いているようだ。騒がしい講習後の廊下で、たった一人巻き戻すように教室へ向かって目の前を歩いていく笹岡の姿を怜は眺めている。
怜が手に持っていたスマホから、LINEの受信音がバイブとともに鳴る。
…
…
怜は、スマホを取り出す。それから、思わず呼び止めようとしてから、ふと思う。
…何を?
そう思ってるうち、笹岡は自分の教室へ入ろうとする。その時、笹岡が一瞬だけこちらを見た。
ドキッ、と怜の心臓が音を立てて、目が合ったあとで何をすればいいのかと戸惑っているうち、笹岡は何も言わずに教室へと入って行ってしまう。一瞬、怜に向かって不可解な笑みを浮かべたあとで。
「…」
笹岡の姿が見えなくなると、怜は手に持っていたスマホを操作して、再びメッセージを見た。
スマホ来ていたユウからのLINEには
「これから塾なんだけどさ、蓮は家居る?今から会えない?」という文字が踊っていた。
怜は荷物を手に持ち直した後、歩きながら笹岡の教室を通り過ぎる。画面に「ごめん、」と打とうとして、だが一体何を言えばいいのか、何だかよく分からなくなる。
胸がズキズキと痛む。
さっき、何で自然にできなかったのか、自分でもよく分からなかった。
…
…
「おい」
「えっ?!」
玄関前に辿り着いた怜が、荷物を肩に背負い直して靴を取り出そうとしている所で、急に後ろから肩を叩かれる。
怜は振り返る。