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満員電車に揺られ、隣の吊り革で揺られる加齢臭に、鼻を摘みつつ蟻の行列は同じ道を辿る。けれど、これが最後の出社日だ。アメリカ楓が色づき始めた葉を揺らす。見上げる18階建のビルは牙城のようだ。
エレベーターの扉が開くたび、いつもの匂いがする。紙とインクと、誰かの残り香水と、微かに焦げたコーヒーの匂い。18階で降りて、廊下を歩く。ガラス張りの会議室から漏れる話し声、キーボードの打鍵音、コピー機の唸り。全部が、昨日までの私の日常だった。
デスクに着くと、田辺チーフの視線が刺さる。銀縁眼鏡の奥から、鋭く睨んでくる。
「おい、伊藤。昨日から何だその態度は。メールも返さず、電話も出ず。ふざけてるのか?」
隣の席の課長が、資料の束をバンッと机に叩きつける。
「これ、今日の午前中にまとめろって言っただろ! お前がいないせいで会議が台無しだぞ!」
周りの視線が集まる。いつもの光景。でも、今日は違う。私はゆっくり立ち上がって、封筒を差し出す。退職届の控え。原本はもう人事に提出済み。
「これで、正式に受理されたはずです。お世話になりました」
声は震えなかった。作り笑いもいらない。ただ、静かに言う。チーフの顔が一瞬固まる。眼鏡が少しずれて、目が丸くなる。
「は? 何言ってんだ。お前、勝手に辞められると思ってんのか? 引き継ぎはどうすんだ。資料は? プロジェクトは?」
課長が声を荒げる。
「コピーとお茶汲みしかできない女が、急に辞めるだと? ふざけんなよ!」
課長は手元にあった書類の束を、私目掛けて投げつけた。深々とお辞儀をした後頭部でコピー用紙が舞い散る。その言葉が、胸に刺さる。靴底で数字の羅列が印刷された資料を踏み躙る。痛くない。もう、慣れた。
私はPCの電源を落として、社員証をデスクに置く。健康保険証のコピーも、離職票の申請書も、全部揃えて人事に渡してきた。
「引き継ぎは、昨日までに私がまとめたフォルダに全部入ってます。未払い残業の明細も、クラウドに共有してあります。人事部に確認してください」
周りがざわつく。誰かが「え、マジで?」「伊藤さん、タダ働き?」って呟く。チーフが立ち上がって、声を低くする。
「伊藤。お前、こんなところで辞めて、後悔するぞ」
私は静かに首を振る。
「後悔するのは、私じゃないと思います」
最後に、課長の方を向く。
「資料の作成が出来ずに慌てふためく……って、想像通りですね。お疲れ様でした」
課長の顔が真っ赤になる。チーフの眼鏡がまたずれる。そして私は二冊のファイルをカバンから取り出した。
「この報告書は、人事に提出済みです」
そのファイルを受け取った課長と田辺チーフの顔色は青ざめ、ページを捲る手が止まらない。パワハラの証拠、休日出勤命令のスクショ、使途不明な経費、未払い残業の計算表、課長の不適切発言、セクハラまがいの言葉を何度も繰り返した証拠。給与明細と残業時間の乖離を示すデータ。全部、時系列で整理した。
「……これは」
私はUSBメモリをデスクの上に置いた。
「この中に、お二人の音声も全て録音してあります。内部告発ととっていただいても構いません」
私 はカバンを肩にかけて、背を向ける。廊下を歩く。エレベーターに乗る。1階のロビーに出て、自動ドアが開く。外の空気が冷たい。アメリカ楓の葉が、風に舞って足元に落ちる。最後の出社日。
牙城は、もう私のものじゃない。
蟻の行列から抜け出した私は、もうあのビルには戻らない。
スマホを握って、区役所の予約を確認する。転出届はもう済んだ。住民票は山間の白山市河内村に移ってる。支援金60万円が入ったら、屋根を直して、畳を新しくして、古道具屋で小さなテーブルを買う。
縁側でコーヒー淹れて、白山を見ながら、ゆっくり生きる。伊藤里奈の逆襲は、今日で完結。鎖は、完全に切れた。