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課長と田辺チーフに一矢報いた私は、晴れやかな気持ちで北陸新幹線に乗った。大型家電は全てリサイクルショップに買い取ってもらった。引越し業者に依頼したのは洗濯機と冷蔵庫、衣類を詰め込んだ最後の段ボール箱にガムテープを貼った時、人生に一区切りついたような爽快感があった。
東京のワンルームはもう空っぽ。鍵を管理会社にポスト投函して、振り返らずに駅へ向かった。改札を通る瞬間、肩の力が抜けた。いつもなら「遅刻するかも」って焦ってたのに、今日は違う。急ぐ必要がない。自分のペースで歩ける。
新幹線の指定席に座って、窓の外を見る。東京のビル群が後ろに流れていく。スマホを開くと、会社グループのチャットはもう通知が止まってる。最後の一通は人事から。「手続き完了しました。お疲れ様でした」。それだけ。田辺チーフの顔が一瞬浮かぶ。眼鏡がずれて、目が丸くなったあの瞬間。課長の真っ赤な顔。「コピーとお茶汲みしかできない女が」って言葉が、今はただの遠い記憶。もう刺さらない。
車窓に田園風景が広がり始める。金沢を過ぎて、山が近づく。白山市河内村へのバスに乗り換えて、細い道を登る。タクシーじゃなくてバスにしたのは、少しでもお金を節約したかったから。支援金60万円が入るまで、慎ましく生きるつもり。
バス停で降りて、砂利道を歩く。草の匂いが強くなって、蟻の行列がまた見える。でも今は、私がその行列の外側にいる。
祖母の家に着いて、鍵を開ける。引越し業者が先に届けてくれた段ボールが玄関に積まれてる。洗濯機と冷蔵庫は外の物置に置いてもらったらしい。
中に入って、縁側に座る。段ボールを開けて、服を畳に並べる。畳は隣町の畳屋さんが、
「古い畳じゃ大変やろ?お金は後で良いさけ、取り替えとくわ」
見ず知らずの転入者に、ここまで気遣ってくれるなんて、東京じゃ考えられない。真新しい井草の匂いが気持ち良い。そして、懐かしい木の匂い。最後の箱から取り出したのは、小さな写真立て。子供の頃の私と祖母が、白山をバックに笑ってる写真。
「おばあちゃん、帰ってきたよ。もう、逃げない。ここでちゃんと生きていく」
声に出して言ったら、涙が少し出た。でも、嬉しい涙。
空き家関連の補助活用制度というものがあって、祖母の家を空き家バンクに登録すれば、リフォーム補助(改修費の1/2以内、最大50万円程度)が支給されると、役場の職員が笑顔で教えてくれた。
「あぁ、伊藤さんの家ね。瓦が少し傷んでいるから、瓦から修理した方がいいですよ」
転入前に、下見をしてくれていた。至れり尽くせり。屋根の修理は来月から。畳は張り替え済み、古道具屋で小さなちゃぶ台を見つけた。水回りはおばあちゃんが住んでいた頃にリフォーム済みで、これまで住んでいた築20年のワンルームよりも真新しい。ガス、水道の開通手続きも済んだ。
仕事はまだ探してるけど、テレワークのライター案件をいくつか応募した。給料は少なくても、ここなら生きていける。
「支援金の振り込み通知が来たら、まずは瓦の修理と雨樋の交換っ……と」
メモ帳に、これからすることを書き出していく。それから、庭の草むしりと柿の木の手入れ。人生に一区切りついた爽快感は、まだ胸に残ってる。
「なにこれ、最高じゃん!楽しいんですけど!」
ただ、冷蔵庫と洗濯機が物置に仕舞われたままだ。「どうしよう……」とても一人じゃ動かすことなんて出来ない。縁側であぐらを組んで悩んでいると、坂道を、麦わら帽を被り首から手拭いを下げた年配の男性が、笑顔で手を振り上って来た。
「おーい、伊藤さんかい?」
声が明るくて、ちょっと訛りが強い。私は慌てて立ち上がって、砂利の上を駆け下りる。
「はい……あの、どちら様ですか?」
「近所の山下じいさんだよ。昔、おばあちゃんの畑を手伝ってたもんだから、帰ってきたって聞いたら顔見に来たんだわ」
麦わら帽の下から覗く目は優しくて、皺の深い顔がにこにこしてる。
「いやあ、ずいぶん立派な家になったもんだ。……って、まだ片付いてないみたいだけどな」
視線が物置の方へ向く。
「あ、あの……冷蔵庫と洗濯機が置いてあるんですけど、重くて一人じゃ動かせなくて……」
「ほぉ、それならちょうどいい。俺のトラックに積んで持ってきたから、さっさと中に入れようか」
え?
山下じいさんが後ろを振り返ると、坂の下に古い軽トラックが停まってる。荷台にロープと手押し車が乗っかってる。
「いや、待ってください! 私、まだ挨拶もちゃんとできてなくて……」
「いいよいいよ、そんな堅苦しいこと。昔、おばあちゃんに世話になった恩返しみたいなもんだ。ほら、手伝うぞ」
山下じいさんはもう物置に向かって歩き出してる。私は慌てて後を追って、物置の扉を開ける。冷蔵庫と洗濯機が、埃をかぶって並んでる。
「これ、どっちから入れる?」
「えっと……洗濯機からでお願いします」
「よし。じゃあ俺が下から持つから、お前さんは上から支えてくれ」
意外と力強い腕で、じいさんが洗濯機を軽く持ち上げる。私は慌てて上から支えて、二人でゆっくり家の中へ運ぶ。
「ここでいいか?」
「はい、ここでお願いします」
ドスン、と音を立てて置く。次は冷蔵庫。これも二人で持ち上げて、キッチンに設置。汗だくになったじいさんが、手拭いで顔を拭きながら笑う。
「ふう、終わった終わった。まあ、こんなもん一人で運ぶのは無理だよな。俺も若い頃は一人でやったけど、今じゃ腰が悲鳴を上げるわ」
「本当にありがとうございます……! どうしたらいいですか? お礼に何か……」
「礼なんていらんよ。ただ、時々顔見せてくれりゃそれでいい。畑の野菜余ったら持ってくからな」
じいさんが麦わら帽を直しながら、縁側に腰を下ろす。
「ところで、伊藤さん。東京から急に帰ってきたって聞いたけど……何かあったんか?」
私は少し迷って、でも正直に話す。
「会社を辞めてきました。もう、社畜みたいな生活は嫌で……ここでゆっくり暮らそうと思って」
じいさんがゆっくり頷く。
「そりゃいい選択だ。山は優しいよ。焦らなくていい。自分のペースで生きりゃいいんだ」
風が吹いて、ススキがさらさら揺れる。じいさんが立ち上がって、軽トラの方へ歩き出す。
「また来るわ。冷蔵庫のコンセント、ちゃんと繋いどけよ。電気はまだ通ってないって聞いたけど、近所の変電所に頼めばすぐ来るはずだ」
「はい、ありがとうございます!」
山下じいさんが手を振って、坂を下りていく。私は縁側に戻って、メモ帳をもう一度開く。冷蔵庫と洗濯機の項目に、太い線で二重線を引く。
「山下さん、ありがとう」
声に出して呟いたら、胸の奥が温かくなった。山の人は、こんなに優しいんだ。これから、少しずつ、この村の人たちと繋がっていけるかも。支援金が入ったら瓦と雨樋、次は庭の草むしり。そして、じいさんに野菜のお礼に、手作りの何かを作ってみようかな。
人生、最高じゃん。本当に、楽しいんですけど!