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#シリアス
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紫香楽
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【煌Side】
鳳凰館の床に無残に散らばった「林檎の菓子」の残骸を見た瞬間
私の理性を繋ぎ止めていた最後の一線が、音を立てて断ち切れた。
踏みにじられ、土にまみれた甘酸っぱい香りが、今は亡骸のような虚しさを伴って鼻を突く。
彼女がどんな想いで林檎を刻み、火にかけ、私の喜ぶ顔を想像しながらこれを焼き上げたのか。
そして、それを手渡すことも叶わず
略奪者の軍靴の下で粉々にされた時の絶望はどれほどだったか。
それを想うだけで、肺の奥が焼けるように熱く
呼吸をすることさえ苦しい。
視界が真っ赤に染まり、全身の血管をどす黒い怒りが逆流していく。
「……その男が、連れ去ったのか」
傍らで泣き崩れる女将の震える声を聞くまでもなかった。
軍の機密窃盗という、あまりにも使い古された、そして反吐が出るほど卑劣な濡れ衣。
私の不在を狙った手際の良すぎる強襲。
これほどまでの醜悪な執着を抱き、権力を私欲のために振りかざす男は、この帝都に一人しかいない。
あの狂った選民思想の権化、鷲津大佐だ。
私は自室に戻ると、迷うことなくクローゼットの奥から一着の軍服を手に取った。
公式行事で着るような予備の新しいものではない。
あの日、鳳凰館の暗い食料庫の中で
雪が細い指先を震わせながら、一針一針丁寧にボタンを縫い直してくれた、あの軍服だ。
指先でそのボタンの感触を確かめると、彼女のひたむきな真心と
私を案じてくれていた温かな体温が、凍てついた私の心臓に強烈な熱を注ぎ込むのが分かった。
「雪……今、行く。必ず助け出すからな…」
鏡に映る己の瞳には、かつて戦地で「死神」と恐れられ
数多の命を冷酷に奪ってきた頃の、底知れない闇と静寂が宿っていた。
軍法会議、国家反逆、官位の剥奪
そんなものは、彼女が流したであろう涙一粒の重みに比べれば、空に舞う羽毛よりも軽い。
私は腰に、一切の迷いなき一振りの軍刀を差した。
これは国を守るための象徴ではない。
ただ一人、愛する女の尊厳を泥沼から救い出し、仇なす者を食い千切るための飢えた牙だ。
鳳凰館を飛び出し、愛馬の腹を蹴って鷲津の別邸へとひた走る。
夜の帳が下りた帝都の街並みが、憎悪で歪む視界の端へと流れていく。
街灯の光が流星のように背後へ去り、馬の蹄が石畳を叩く激しい音が
私の焦燥を煽る鼓動のように響いた。
一刻も早く、一秒でも早く。
彼女の肌に、あの男の指が触れる前に。
「……雪を苦しめるものは消さなければ」
喉の奥から漏れるのは、もはや人間の言葉ではなかった。
鷲津の別邸は、己の権勢を誇示するように街の外れに傲然と、そして不気味に佇んでいた。
門衛たちが私のただならぬ気配を察知し、慌てて銃を構える。
「止まれ! ここは大佐閣下の私邸であるぞ! 何奴だ───」
「退け。さもなくば、その首を胴から切り離す」
私の全身から放たれる圧倒的な殺気と、暗鬼のような眼光に
訓練されたはずの兵士たちが蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
私は馬を降り、一歩、また一歩と重厚な石畳を踏みしめる。
この軍服に刻まれた彼女の指跡が、私に冷徹な力を与えてくれる。
たとえここが私の墓場になろうと、構わない。
彼女を泣かせ、その黄金の髪を、清らかな心を
二度までも泥に塗らそうとする者に、私は軍人としてではなく
一人の男として、逃れようのない地獄の業火を見せつけてやる。
正面の巨大な扉の前に立ち
私は溜まった怒りのすべてを込めて、軍靴の底で力任せにそれを蹴破った。
凄まじい爆音と共に、建付けが歪み、扉が内側へと崩れ落ちる。
幕は上がった。
待っていてくれ、雪。
君をこの地獄から引きずり出すためなら、私は喜んで、この軍服を奴らの鮮血で染め抜こう。