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#シリアス
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紫香楽
冷たく湿った空気と、古い機械油のような不快な匂いが鼻を突く。
意識が暗い底から浮上すると同時に感じたのは、手首と足首を無慈悲に締め付ける縄の皮膚を焼くような不快な感触だった。
薄暗い部屋の真ん中、私は一脚の木製椅子に
自由を奪われたまま無様に縛り付けられていた。
指先一つ動かすことさえ叶わない。
────ガチリ、と。
静寂を切り裂き、暗闇の奥で硬い軍靴の踵が石床を叩く音が響いた。
その瞬間
私の全身の毛穴が逆立ち、心臓が氷の刃で貫かれたように凍りついた。
忘れるはずがない。
私の悪夢に幾度となく現れ
そのたびに私を絶望の淵へと突き落としてきた、あの傲慢で冷酷な、規則正しい足音。
「……ようやくお目覚めか。鳳凰館の『黄金の泥棒猫』殿。いや、今は煌の寵愛を受ける身だったか」
闇を割り、ゆっくりと姿を現したのは、漆黒の軍服を醜悪に歪ませて笑う男───鷲津大佐だった。
あの日
雨に打たれ、泥にまみれた私の黄金の毛束。
首筋を撫でた軍刀の、心まで凍てつかせるような冷たい輝き。
耳元で執拗に囁かれた、汚らわしい罵倒の数々。
封印していたはずの忌まわしい記憶が、決壊したダムのように脳内へと溢れ出す。
視界が激しく点滅し、肺が潰れたかのように呼吸の仕方を忘れて胸が苦しい。
「あ…ぁ、ああ……っ」
声にならない悲鳴が喉の奥で震える。
逃げなきゃいけないのに、体は金縛りに遭ったように硬直して指先一つ動かせない。
脳裏には、鋭利な刃が私の髪を削ぎ落とす
あの無機質で残酷な「ジョリッ」という音が
幻聴となって幾重にも重なり、絶え間なく鳴り響いていた。
「ははっ、いい面構えだ。その絶望に染まり、怯えきった顔が見たかったのだよ」
「あの若造、煌に囲われて、少しはまともな人間に戻ったつもりでいたか?泥棒猫がどれだけ着飾ろうと、その本性は変わらんというのに」
鷲津が一歩、また一歩と距離を詰めるたびに、私の周囲から酸素が奪われていく。
彼は私の目の前まで来ると、獲物をなぶり殺す愉悦に満ちた笑みを浮かべ
濁った色の革手袋に包まれた汚らわしい指を伸ばしてきた。
「また会えたな、雪。……相変わらず、その髪は分不相応に美しい」
「どうだ? 今度はその短い髪さえも残さぬよう、地肌から根こそぎ刈り取ってやろうか。くくっ、それとも、その白皙の肌に、二度と消えぬ我が軍刀の銘でも刻んでやろうか」
「や、やめ……っ、いや、いや…やめて……っ!」
恐怖で顔が引き攣り、声が裏返る。
「一生、私の刻印を背負って生きるのも悪くないだろう?」
────クイッ、と。
抵抗する術もなく、革手袋の獣じみた感触と共に
私の顎が強引に、力任せに持ち上げられた。
至近距離で合う、蛇のように冷たく濁った瞳。
そこには、一人の人間の尊厳を徹底的に破壊し
その残骸を愛でようとする、どす黒い狂気と悦楽だけが宿っていた。
(助けて…いやだ、煌様…お願い…助けて……っ!)
心の中でどれほど叫んでも
その願いは声にならず、ただ熱い涙となって頬を伝い落ちるだけだった。
顎を掴む指先に、ミチミチと音がしそうなほど力がこもる。
痛みとともに、底知れない絶望が全身の血の巡りを止めていく。
かつて私の心を一度殺したこの男の前に
私は再び、抵抗一つできぬまま、生贄のように晒されている。
煌様。
あんなに温かかった、あの鳳凰館での日々。
あの方と笑い合い、お菓子を囲んだあの時間は
やはり私のような過去を持つ女には許されない、過ぎた贅沢だったのでしょうか。
私はもう、この暗い部屋で、光をすべて奪われて、死んでいくしかないのでしょうか。
鷲津の顔が、さらに歪んだ笑みを湛えたまま、私の耳元へと這い寄ってくる。
背筋を駆け抜ける耐えがたい戦慄。
あまりの恐怖に視界が真っ白に染まっていく中
私はただ、もう二度と戻らぬかもしれないあの幸福な記憶──
煌様の優しい微笑みだけを、最後の命綱のように、必死に胸の奥で抱きしめていた。