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「なんか……ごめんね?」
彪さんが立ち去った後、京谷さんがぽつりと言った。
周囲の視線が痛い。
が、それよりも、彪さんにあんな表情をさせてしまった。あんなことを言わせてしまった自分が情けない。
「いえ。私は――」
「――羨ましいわ」と、京谷さんは定食のオムライスをスプーンですくいながら言った。
「あんなに『家族』ってコミュニティを嫌っていた彪の気持ちを変えるほど、愛されていて」
ふっくらとして艶のある朱色の唇が、スプーンを咥える。
同性から見ても、魅惑的だ。
「彪が好きなら、ぽっと出でバツ二の私なんかに奪われないように、ちゃんと捕まえておいた方がいいわよ?」
「……ごゆっくりお召し上がりください」
私は頭を下げ、キッチンに戻った。
石谷さんを始め、キッチンのみんなが心配そうに私を見ていたが、私は無言で手を洗い、オーダーを確認した。
口を開いたら、泣いてしまいそうだった。
彪と京谷さんは、気心が知れた関係のようだと、思っていた。
色恋に疎い私でもわかるほど親し気な雰囲気に、なんだか胸が苦しかった。
綺麗で、支社長秘書だなんて立派な肩書があってもそれを鼻にかけることはなく、覇気があって、自信に満ちていて。
私にない、私が憧れる全てを兼ね揃えた京谷さんに、憧れと嫉妬を覚えた。
醜い感情だ。
親し気に、楽しそうに話す彪さんと京谷さんが気になって仕方がなくて、危うくケチャップとソースを間違えそうになった。
京谷さんとの再会で、彪さんは私を好きだなんて気の迷いだったと気づいてしまうのではと怖くなった。
そんなぐちゃぐちゃな感情で聞いてしまったから、動揺を通り越して無の境地に達してしまった。
『私と結婚しない? 彪。私たち、話も合うし、身体の相性も良かったじゃない?』
ああ、やっぱりそうか。
彪さんと京谷さんは過去に関係があった。
お二人とも美男美女でお似合いだ。
私のような気味の悪い瞳の芋のような地味女など、芋を洗って、床掃除をしているのがお似合いだ。
なぜか、酷く自分が惨めに思えた。
そして、夢から醒めただけなのだと自分に言い聞かせた。
全部、自分に都合のいい幸せな夢。
現実は、素敵な男性には素敵な女性が相応しい。
『ごゆっくりどうぞ』
接客業失格の、愛想笑いも真心もない低く冷めた声に、自己嫌悪が深まる。
『京谷さんが言ったことじょ、冗談だから』
いかにも浮気現場を押さえられた男がいいそうな陳腐な台詞を、心から尊敬し敬愛する彪さんに言わせてしまい、いたたまれない。
私を好きだと言ってくれた彪さんのお気持ちを信じ切れず、いや、信じて裏切られるのを恐れた結果が、これだ。
とにかく、一刻も早くこの場を立ち去りたくて、考えなしに出た言葉。
『おめでとうございます』
なにがおめでとうなのだろうと、思った。
まるで、彪さんと京谷さんの結婚を祝福しているようだ。
今ほど、消えてなくなりたいと思うことは、これまでなかった。
『おめでとうってなに? 俺が麗と結婚するとでも思うの』
いつもよりずっと低く、感情が見えない声に、怖くて彼を見れない。
『俺が好きなのは椿だって言ってんだろ!』
彪さんの悲鳴のような声が、槍のように胸に突き刺さった。
反射的に彼を見ると、今までに見たことのない険しい、それなのに寂しそうな表情をしていた。
『いい加減わかれよ! 俺が好きなのは椿なんだよ。椿となら結婚したいって思うくらい好きなんだよ!!』
彪さんを、傷つけた。
あんなに優しい人を、私は傷つけた。
恩を仇で返す、なんてものじゃない。
『頭冷やしてくる』
ひと言も発せないまま、彼を行かせてしまった。
氷の海に飛び込みたい気分だった。
キッチンでひたすら調理に励み、十二時半を境にお客様が入れ替わる。
入って来た人たちは、つい十数分前の出来事を知らず、メニューを決めて席に着き、他愛のない話をして料理を待つ。
「是枝さん、戻って来ましたよ?」
あきらさんの言葉に、ひたすら盛り付けていた私の手が、宙で静止した。
「そう……ですか」
他にどう言っていいかわからない。
彼を傷つけた私に、何も言う資格なんてない。
結局、私はキッチンから出ることなく、お弁当販売の時間を迎えた。
今日は京谷さんが視察に来ていることもあり、私たち従業員はラーメンやそばなどの麺類を賄いとすることにして、残った総菜は全てパック詰めした。
メニューを注文するタブレットを載せているテーブルを入口から外に出す。
テーブルの端をよいしょっと持ち上げた時、ふっと軽くなった。
目の前には彪さん。
「さっきは、ごめんな?」
目も合わせずにそれだけ言うと、彼はテーブルを食堂前に運び出してくれた。
彪さんは何も悪くないのに、謝らせてしまった。
路頭に迷いかけていた私を助けてくれた恩人で、やりがいのある仕事を与えてくれた上司で、孤独な私を抱いて温めてくれた男性に対するこんな仕打ちは、時代が違えば切腹も当たり前の罪だ。
私なんて、両手両足を縛られて、底なし沼か蟻地獄にでも放り込まれてしまえばいいんだ。
もしくは、いつか映画で見たように、井戸に落とされて容赦なく蓋を閉められてしまえばいい。
這い上がろうともがいて爪が剥がれようが、声が枯れるまで叫ぼうが、誰にも助けてもらえない。
そんな罰を与えられても仕方がないようなことを、私はした。
そんな私の荒んだ考えをあざ笑うかのように、今日のお弁当は瞬く間に完売した。
京谷さんが視察にいらしていることを考えればとてもありがたい。
「お疲れ様」
食堂から顔を出した彪さんと京谷さんの労いの言葉に、私は思わず顔を背けた。
「……お疲れさまでした」
感じが悪い。
非常に、感じが悪かったと思う。
それでも、仕事は仕事。
気まずいながらも今日の売り上げ等についての報告をして、集計の項目を絞っていく。
食堂のスタッフは片付けを終えて、帰って行った。
「――じゃ、報告書の内容はこんな感じで」
「いいと思うわ。他の支社でも集計を取りやすい項目だし、比較検討の基準として役立つし」
「柳田さんは集計表とグラフを頼めるかな。最終的には俺がまとめるから」
「わかりました」
ここまでで時計を見ると、終業時刻の二十分前だった。
「じゃ、今日はこれで終わろう」
「そうね」
テーブルの上の資料をまとめる二人より先に、私は立ち上がった。
「では、お先に失礼――」
「――あーっ、美味しい海鮮丼が食べたいなぁ」
京谷さんの声に、私の挨拶が遮られる。
「あと、ザンギ? ラーメンサラダも!」
棒読みで札幌の名物を挙げていく。
「札幌味噌ラーメンも食べたい。ちぢれ麺!」
結局、何が食べたいのだろう。
「柳田さん、連れてって」
語尾にハートマークが見えた。
「れ――京谷さん。食事なら――」
「――ね! 女子会しよう?」
本気だろうか。
だが、なぜ私なのだろう。
京谷さんは彪さんが好きなのだから、私は目障りなだけではないのだろうか。
それとも、食事は名目で、実は『あんたなんか彪に相応しくないわ!』『彼の前から消えてよ!』と言うような女の闘い《バトル》が目的だろうか。
彼女の意図が分からず、私は立ったまま見下ろしていた。
様々な憶測が脳裏を掠めるが、そんなことよりも気になる言葉があった。
女子会……。
「麗! 飯なら俺が付き合うから、柳田さんは――」
「――しましょう!」
私は自分が思うよりも力強く言った。
資料を持つ手がグッと握りこぶしになるくらい。
「しましょう、女子会!」
「椿!?」
「やった!」と、京谷さんが立ち上がると、ガシッと私の腕に自分の腕を絡めた。
「じゃ、後はよろしく!」
そう言って彪さんに手を振ると、京谷さんは私を引きずるように食堂を出た。