私がレオン殿下の要請を受けて王宮に赴いたのはおよそひと月前。そこまで長期間というわけではなかったのだけれど、ジェムラートのお屋敷の雰囲気がずいぶんと変わっているように思う。
フィオナ様のリブレール行きに奥様が付き添う事になったので、エミール様もご一緒にという流れになったらしい。まだ2歳の幼い子供を母親の側から離すべきではないとされたのだとか。
フィオナ様に奥様、エミール様……そして彼らの身の回りのお世話をする使用人達。リブレール行きの一団は想定していたよりも大所帯になり、かなりの人数がお屋敷を離れることになってしまった。
それでもジェムラート家は元々の使用人の数がかなり多い。急な来客にだって問題無く対応できる程度の人員は確保されている。屋敷の中も掃除が行き届いてピカピカだ。傍目には何も問題がないように見えるのだろうな。しかし、私には今のお屋敷は、どこか物悲しくて冷たい空気が流れているように感じたのだ……それはきっと、人が少ないだけが理由ではない。
家主以外の家族が長期不在という、あまり無いであろう状況に陥っているジェムラート家。私達はこのお屋敷の人間を調べるためにやって来た。現在はその2日目になる。
皆のご厚意で1日目は実家の方に帰宅させて頂いた。何だかんだ我が家というのは落ち着く。1日ではあったけれど家族と共に過ごさせて貰い、良い気分転換になった。クレハ様のことが心配で堪らなかった父が、王宮で彼女がどのように過ごされているかを根掘り葉掘り質問してきた。これにはちょっとだけうんざりしたけどね。
遅れてのスタートになったけれど、私も今日から調査に加わることになる。とにかく足を引っ張らないように気を付けないと……
時刻は朝の6時。ルーイ先生はきっとまだお休みだろう。セドリックさんとミシェルさんなら起きてるかな。おふたりの姿を探しながら屋敷の廊下を進んで行く。
私はクレハ様にお使いを頼まれたという理由で一時的に帰ってきたことになっている。怪しまれないように、クレハ様には本当に用事を作って頂いたのだ。ひとつは旦那様と奥様への手紙を渡すこと。これは初日に完了した。もうひとつは……
「あっ、リズじゃない。おはよう」
「マリエルさん! おはようございます」
廊下の反対側から歩いて来た女性に声をかけられた。彼女はマリエルさん。侍女見習いの私を指導してくださっている先輩だ。
「丁度良かった。あなたに聞きたいことがあったのよ。今から一緒に来て貰ってもいい?」
「えっ、ちょっとマリエルさん!?」
彼女は私の返事を待たずに腕を掴み取る。大した抵抗も出来ないまま、私はずるずると引きずられるようにどこかに連れていかれてしまったのだった。
マリエルさんに連れてこられたのは、厨房の近くにある休憩室だ。彼女は『ここで待っていて』と私を残してさっさと退室してしまう。
「そう言われてもなぁ……」
具体的な時間を提示されなかったので困ってしまう。待つってどのくらい? できるだけ早くミシェルさん達と合流したかったのだけど。ただでさえ私は1日お休みを頂いたようなものなのだ。早くお手伝いがしたい。
そわそわと落ち着かず室内を歩き回っていると、ガチャリとドアノブを回す音がした。扉がゆっくりと開かれて、そこからひとりの女の子が顔を覗かせた。
「あっ、えっと……」
誰だろう……この子。初めて見る。全く面識の無い少女の登場に言葉が詰まってしまった。新しく入った使用人だろうか。私と同じお仕着せを身に付けている。
「…………」
何か喋ってくれないかな……。扉は半分ほど開かれているが、彼女が部屋の中に入ってくる気配はない。多分年上なんだろうけど……12、3歳くらいに見える。肩上の長さに切り揃えられた青みがかった黒髪。瞳も同じく黒色。チラチラとこちらに視線を投げかけ、物言いたそうな素振りをしている。
もしかしてマリエルさんは、この子を私に紹介しようとしていたんじゃないだろうか。見たところかなり奥手そうな女の子だ。歳が近いだろう私となら、打ち解けるのも早いのではと考えたのかな。そういうことであれば……
「私はリズ・ラサーニュ。こちらのお屋敷で侍女見習いをしているの。あなたは?」
「……わ、わたしは……カレン」
こちらから声をかけると、彼女は驚いたように肩を振るわせる。返事も小さくてか細いものだったけれど、それでもしっかりと言葉を返してくれた。話しかければきちんと答えてくれることに安心する。
「カレンって呼んでもいい? 私のこともリズでいいよ」
「うん」
「カレンもマリエルさんに呼ばれてここに来たの?」
彼女は静かに頷く。やはりそうだった。そうなると理由の方も当たりだろうな。面倒見が良いマリエルさんらしい。
「朝のお仕事はいいから、この部屋で待っていてと言われて……」
「私と同じだね。カレン、良かったらこっちに来て座ってお話ししない?」
彼女は相変わらず扉の隙間からこちらを伺うように話をしていた。マリエルさんはいつ戻ってくるか分からない。ひとりで悶々としているよりは、彼女とおしゃべりでもしていた方が有意義だ。きっとマリエルさんはそれが狙いだろうしね。
「えっと……じゃあ、少しだけなら」
私の誘いに一瞬迷ったような表情をした けれど、カレンはゆっくりと部屋の中に足を踏み入れた。
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