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美容院の扉を開けるたびに胸が高鳴る。
この感覚に名前をつけるのはきっとまだ早い。
「いらっしゃいませ、すずかさん」
いつものように物腰柔らかな声で大森さんが出迎えてくれる。
名前はもちろん偽名。けれどもう1年もこれで通っていて、今さら本名を名乗る気にもなれなかった。
2週間に一度の『メンテナンス』と称した予約。
仕事上、そこまで髪にこだわる理由はない。けれど彼の手が自分の髪を撫でるように触れるあの時間を逃すなんて、そんなもったいないことはできない。
「今日は、毛先そろえる感じでいいですか?」
「はい、前回と同じでお願いします」
ほんの少しだけ彼の指が耳に触れる。
わざとじゃない。仕事をする上で必要な工程だって分かってる。でも、ドキッとする。
(指先、冷たい……)
気温のせいか、それとも自分の熱が高いせいか。
でもその冷たさが心地いいと感じてしまう時点でもう終わっている気がする。彼のことを調べ始めたのは、最初に髪を切ってもらった日。まっすぐに、真摯に、そして優しくこちらを見てくるその眼差しが、心の奥に突き刺さって抜けなかった。
その日帰宅してすぐSNS、店のレビュー、大森の友人のアカウント。美容専門学校の卒業アルバム、髪型の変遷、好んで使うシザーの種類、いつも使っている香水を調べあげた。
最近新しく飼い始めた猫の名前が「きなこ」だと知った時は、思わず声が漏れそうになった。
(どうして、こんなに知りたいんだろう)
知れば知るほど足りなくなっていく。
もっと見たい、もっと触れたい、もっと――もっともっと、彼の中に入り込みたい。
ポストに手紙を入れたこともある。だけどそれが自分に返ってくることはなかった。
_____________
ある日、帰宅した藤澤が部屋の前に小さな封筒が落ちていることに気づいた。
(え?)
差出人はない。中には自分の写真が何枚か入っていた。
カフェで友人と話している時、図書館で棚を整理している時――誰かが、どこかから自分を見ていた。
背筋がぞわっとする。けれど怖くはない。
むしろ、胸がきゅうっとなる。
(見てくれてるんだ)
誰かが自分を。
いや、「彼」しか考えられなかった。
「もしこの行動をしたのが彼だったら」という妄想が喉元までせり上がってきて、思わず笑ってしまった。
(それだったらおあいこなのにな)
だってこんなにも見てる。調べてる。
美容室を訪ねる時には必ず彼のその日の服装をSNSで確認して、似た系統の服を着るようにしているし、最近彼がハマってるという映画ももう3回見た。
「ストーカーってばれたら嫌われるのかなぁ……」
ふと漏らした独り言に誰も応えない。
でもどこかで誰かが笑った気がした。
_____________
美容室の椅子に座るとふわりとあの香りがした。
柑橘とウッディ系の混ざった匂い。毎回少しだけ香りが違うのがなんだか嬉しい。
「今日は毛元のリタッチとカラーですね」
「はい、お願いします」
落ち着いた声。いつもと同じトーンなのに、耳に届くとやたらと鼓動が跳ねる。でもそれは「美容師さんとしての魅力」だからだと思っている。
……多分ね?
「髪、前よりも柔らかくなりましたね。家でもケアしてくれてます?」
「えっ…あ、はい。教えてもらった通りのオイル使ってます」
「えらいですね」
笑った声が、あまりにも優しい。
藤澤は嬉しくなって、内心で拍手した。
(やったぁ、また褒められた……!)
好きな人に褒められるって、こんなに幸せなんだ。けれど、それも「美容師さんとお客さん」という関係の中のこと。深く踏み込むわけにはいかない。
(ああでも、やっぱり素敵だなあ)
鏡越しに見える彼の表情。
前髪をかき上げる指の動き。手首に巻かれた時計のバンド。何気ない視線の動き。
全部を、見逃したくなかった。
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最近、家の郵便受けに入ってる封筒の量が増えた。封もされてない小さな紙袋に、まるでポラロイドのような写真や、数行だけ手書きの文字。
気味が悪いとは思わない。写真に写ってるのは自分の背中や横顔だったけど、「きっと偶然」だと信じていた。
(むしろ、構図といいピントといい、すごくこだわっててプロみたいだなぁ)
時々、知らない香水の匂いが混ざっていることに気づいた。けれど、深くは考えなかった。
(もしかして、誰かが僕のこと好きなのかな? なんて…)
それは一瞬の妄想。
すぐに「いやいや、そんなわけない」と自分で否定する。
なぜなら本気で自分が誰かに「見つめられている」なんて思ったことがなかったから。
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仕事帰りぼんやり歩いていたら、近くの路地で見覚えのある姿を見かけた。
(……あれ?)
うちの図書館の方向じゃない、駅裏の路地。
自分の帰るルートでもないその道で、どこかで見たことのある横顔。
黒髪に金色のインナー。黒いシャツ。長いまつげ。
(大森さん……?)
そう思った瞬間、彼はふっと角を曲がって消えた。
(いや、まさかね)
美容師さんが、こんな時間にこんな場所にいるわけない。きっと似てるだけ。髪色も、この時間なら夕日でまた違って見えるし――。
そう納得しながら、歩みを早めた。
胸が少しだけ高鳴っていたけれど、それも「今日のコーヒーが濃かったから」ということにした。
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「すずかさん、髪の毛切るとき動いちゃうと危ないですよ」
「ごめんなさい、くすぐったくて……」
大森さんの手が、うなじに触れる。
指先が熱い。けど、それも「ドライヤーのせい」だと思った。
「……涼架くん」
小さく名前を呼ばれたような気がして、ピクリと肩が動いた。けれど、そんなことを言われるはずがない。
(えっ? 今、なんて?)
振り返ろうとすると
「いえ、なんでもありません。シャンプーいきましょうか」
大森さんはいつもの笑顔だった。
だから藤澤はまた何も気づかないまま――
気づかないフリをしてる彼の掌の上で、ゆっくりと、落ちていく。