テラーノベル
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昨夜の記憶が、今さら脳内で再生された。
ラウンジのVIPルームを出たあと、私は控室のソファに沈み込んでいた。完全に、灰だった。そこへ美月ママが、何気ない調子で言ったのだ。
『あの方、RESTIA株式会社ってところの社長さんらしいわよ』
『へえ……』
たしか、そんな気の抜けた返事をした気がする。
契約書。婚姻届。報酬、1000万円。あれだけの爆弾を一度に投下されて、社名まで脳に定着するわけがない。
(あのRESTIA!?)
(昨日、美月ママが言ってた会社!?)
(思い出すの遅すぎない、私!?)
隣で森下が、小さく息を呑んだ。
「え、若……」
そして、ぽつりと呟く。
「顔面が福利厚生……」
「何、その評価基準」
「出社率上がりますよ、あれ」
周囲の女性社員たちも、明らかにざわついている。
「本当に社長?」
「芸能人かと思った……」
(やめて!)
(みんな、そんな憧れの目で見ないで!)
(そいつ、再会15分で契約書と婚姻届を出してくるヤバい奴だから!)
私の人生の平穏を、破壊しに来た男である。
(福利厚生じゃない。労災よ、労災!)
昨夜、自分がうちの会社の提携先社長だなんて、一言も言っていなかった。
(完全に不意打ちなんだけど!)
「今回の共同ブランドでは、弊社が持つ休息領域の知見と、御社の商品開発力、そして営業現場の声を掛け合わせます」
よく通る声が、会議室へ響く。
「数字だけで作った商品は、実際の生活には届きません。現場でお客様の声を聞いている皆様の意見を、重視したいと考えています」
慧の視線が、ゆっくりと会議室を見渡した。そして、私のところで一拍だけ止まる。
(今、絶対に私を見たわね!)
(確信犯め!)
森下が、隣から私の袖を引いた。目が、完全に祭りになっている。
「橘先輩」
「何」
「今の……こっち見てましたよね?」
「気のせいよ。絶対に気のせいだから、落ち着きなさい」
「でも、一秒くらい――」
「数えなくていい」
慧は何事もなかったように、マイクへ声を乗せる。
「初期段階の企画会議には、私も直接参加します。よろしくお願いいたします」
拍手が巻き起こる。私は一人、頬を引きつらせていた。
(よろしくじゃないから!)
(直接参加しないで!)
(今すぐ帰れ――!!)
***
現実は無情だ。全体会議のあと、プロジェクトのコアメンバーだけが残ることになった。
そして当然のように、私もその一人に選ばれていた。課長が手招きする。
「橘さん、こっち! 今回、営業側の中心メンバーとして引っ張ってもらうから」
「はい。頑張ります……」
声から元気が消えた。席に着くと、真向かいの男とばっちり目が合う。
(逃げたい)
(今すぐ有給を使って帰りたい……!)
仕方なく、営業スマイルを起動する。
(落ち着くのよ)
(相手は仕事相手……)
(昨日、契約結婚を迫ってきた不審者じゃない)
(いや、めちゃくちゃ同一人物だけど!)
慧の隣に控えていた男が、一歩前へ出た。銀縁眼鏡をかけた、塩顔の美形。かなりの長身で、立っているだけなのに威圧感がある。
「秘書を務めております、黒瀬です。以後、連絡窓口を担当いたします」
隣で森下が、配られた名刺を見て小さく呟く。
「……秘書さんまで顔面に隙がない。偏差値70レベル……」
「森下さん、静かに」
「はーい。黙りまーす」
全然黙る気のない、爛々とした目をしている。そして最後に、慧本人が立ち上がった。すっと名刺が差し出される。
RESTIA株式会社 代表取締役社長 神代慧
(所作まで無駄に洗練されてて、逆に腹立つ!)
そして、涼しい声で言い放った。
「初めまして。橘さん」
コメント
1件
ひよりさん、第4話読ませていただきました〜!🤍 もうね、橘さんの心の叫びがめっちゃ伝わってきて、横で「分かるよ…」って頷きながら読んでました(笑)「顔面が福利厚生」とか「労災よ、労災!」のツッコミ、大好きです。森下さんの無邪気な祭り騒ぎもいい味出してて、会議室の空気感がリアルでした。 そして慧さんの「初めまして。橘さん」…ここで一気に持ってかれました。仕事モードで冷静なのに、あの一言に前回の夜の出来事が全部詰まってる感じがして、執着の深さがにじみ出ててドキドキしました。続きが気になります…!