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企画部のオフィスに戻ると、輝馬は今まで一度も使ったことのない届書を使い、1週間の有休を取得した。
受け取った上杉は、輝馬の目も見もせず、「お疲れさん」と言った。
(――お疲れさん。それって、企画部での仕事はもう終わりだってこと?)
輝馬は壁に所狭しと張られているゲームのポスターを眺めながら、廊下を歩いた。
イラつく……。
イラつくイラつくイラつくイラつく……!
(元はと言えばEDになった自分が悪いんだろ!30代なんて女が一番ヤリたいときに、満足させられない自分が悪いくせに!)
ギラギラと眼球の温度が上がっていく。
こういうときは怒りを発散させなければいけない。
そう。
オモチャの出番だ。
最近遊んでなかったからまずは綺麗に洗って、
そのあと気のすむまでたっぷり遊んでやる。
母はどこを遊び歩いているのかは知らないが、平日の日中はほぼ家にいない。
紫音や凌空が帰ってくる夕方まではたっぷり時間がある。
今日は久しぶりに楽しめそうだ。
輝馬は口の端を引き上げた。
◇◇◇◇
エレベーターで1階まで降りると、広いエントランスホールでは内定式の準備が進められており、即席で組まれた部隊の上には、金色のくす玉がかかっている。
輝馬は3年前、新たな世界との出会いと、未来の自分の飛躍に、胸をときめかせながら、あのくす玉を見つめていた自分のことを思い出した。
あれから3年。
変わってしまったのは何だろう。
自分か、
それとも会社か、
はたまたこの世界か。
(――いや、今はそれよりもオモチャだ)
柄にもなくセンチメンタルになりそうな自分を奮い立たせると、演台の脇を通り抜ける。
「あれ、また会った」
その言葉に振り返ると、
「今日はよく会いますねー」
演台横の檀上花の裏から、城咲が現れた。
「………なんで?」
輝馬が眉間に皺を寄せると、
「はは。僕、お花屋さんなんですよ。ブルーバードっていうホームセンターで働いてます」
そう言いながらも彼は、見事な檀上花のバランスを整えている。
「花屋……」
「ええ、パートですけどね」
城咲はさらりと言うと、爽やかな笑顔を向けた。
ホームセンター。
花屋。
パート勤務。
「それなのにベンツ乗ってんのかよ……」
思わず出たつぶやきに、
「……ああ。不思議ですよね」
城咲は持っていたスイートピーの花をクルクルと回しながら言った。
「ところで、輝馬さんは、投げ入れって聞いたことありますか?」
「投げ入れ?」
輝馬は眉間に皺を寄せた。
「一本一本、バランスを見ながら生けるフラワーアレンジメントや生け花とは違い、花器に投げ入れるようにたくさんの花を入れて、自由な発想で生ける方法のことです。まさにこれがそうで」
城咲は両手で、檀上花を示した。
「季節に応じた多品種の花たちをたっぷり使用して花壺に投げ入れします。正面からだけではなく横からも映えるシルエットにするのがコツです。ほらね」
そう言いながら、城咲は花壺を回して見せた。
「……それが?」
話の意図がわからず輝馬がさらに深い皺を寄せると、彼はふっと息を吐いて微笑んだ。
「僕はね、確かに花屋のパート職員です。でも副業もしているし、フラワーアレンジメントの講師もしている」
副業?
講師?
輝馬は目を見開いた。
「僕もこの投げ入れの花壺と同じ。いろんな品種のいろんな顔があるっていうことですよ」
「……………」
輝馬は少し距離を置いて彼を改めて見つめた。
なるほど。
確かにただのパート職員じゃまずあのマンションは買えない。
その上でベンツ。
よく見ると、身に着けているシャツもジーパンも革靴まで、日本が世界に誇る一流ブランド、KISUKE ITOのものだ。
さらには腕時計はCHENELのプリクエル――。
フラワーアレンジメントの講師の収入なんてたかが知れている。
彼が儲けているのは、おそらく――。
「副業って……」
気づけば口をついて出ていた。
「何をしているんですか」
「…………」
城咲は驚いたように城咲を見つめると、ふっと笑った。
「興味あるならお教えしますよ。今度じっくり」
そう言いながら名刺を取り出す。
「………!!」
輝馬が目を見開いていると、
「城咲さん、ちょっとこちらいいですかー?」
「はーい。あ、じゃあ輝馬さん、また!」
城咲はフットワーク軽く、総務の女子たちのもとへ駆けて行ってしまった。
輝馬は再度その名刺を見下ろした。
黒地に赤いバラ。
その中央に城咲という金色の文字が光っていた。
◆◆◆◆
結局実家には寄らずに帰ってきた輝馬は、自宅に帰るとノートパソコンを開いた。
ワイプスの画面を開き、3-4のグループから佐藤を選び、チャット画面を開いた。
『なあ。俺の知り合いが首藤と同じ名刺持ってたんだけど』
少々唐突すぎるだろうか。
一度打った文字を消す。
『なあ、ふと気になったんだけど、その後、首藤とはどう?』
この文章はどうだろう。
高校時代、輝馬が灯莉に付きまとわれていたのは有名だった。
彼女にビビッてこんな質問をするのも不自然ではないだろう。
送信する。
輝馬は時計を見上げた。
時刻はまだ11時。正午にもなっていない。
普通の会社勤めならまだ勤務中のはずだ。
今のうちにシャワーでも浴びるか。
昼を過ぎても返信がなければ、予定通り実家に行って、オモチャを覗いてみるのもいい。
長いこと使っていないから壊れてるかもしれないし……。
そんなことを思いながらネクタイを緩めていると、
ピロン。
パソコンから通知音が鳴った。
ディスプレイをのぞき込む。
【ああ、あれから何度か会った】
「はあ?」
思わずその文字に向かって声を上げる。
【この間も言ったけど、昔のアイツとは全然違うよ】
『バカなんじゃねえのか?いくら痩せてても、いくら綺麗になっていても、あの首藤灯莉だぞ?』
そう打とうとしたところで次のコメントが来た。
【一度3人で会ってみるか?】
手が止まった。
確かにこんな感じで佐藤を介して探りを入れるより、単刀直入に首藤に聞いた方が早い。
城咲は市川家の隣に住んでいる。
万が一ヤバイ商売だったり、裏でヤクザが手を引いている仕事だったりしたら、実家を知られているのは危険だ。
それなら今実家のマンションや、自分のマンションも知らない灯莉の方がリスクは少ない。
もし彼女が本当に、昔のアイツとは全然違うなら、だが。
輝馬は少し迷った末、キーボードに手を伸ばした。
『会ってみたいかも。今週は比較的暇だから、飲みにでも行くか』
そう打ってからため息をつきながらソファに身を沈める。
(首藤……灯莉か……)
ごわごわの硬そうな黒髪。
目は肉に埋もれ、ほっぺは顔の皮膚に対してはち切れんばかりにパンパンで、そのせいかいつもほうれい線のような皺ができていた。
頬に浮き出す吹き出物。
肌が弱いのか、手も足もいつも赤いぶつぶつが出ていて、それを痒そうに搔きむしっていた。
「……………」
皮膚に爪を立て、血が出るほど掻きむしった後の爪の匂いを嗅いでいた灯莉を思い出し、全身に鳥肌が立つ。
(会うだけ……。会うだけだ……!)
自分にそう言い聞かせ、ソファに身を沈めると、途端に睡魔が襲ってきた。
そういえばここ3日ほど、企画のことであまり寝ていないのだった。
(オモチャで遊ぶのは見送りかな……)
輝馬は目を瞑った。
『市川?おいお前、なに寝てんだよ!』
夢の入り口で、聞き慣れた声がした。
今まで何十回と聞いてきた聞き慣れた声。
しかし自分はもう、その声を二度と聞くことはできないだろう。
輝馬の目尻から、一筋の涙が流れ落ちた。