時間は日が暮れなずむ夕方に、場所は職場から離れた駅にした。
輝馬はいつも通りスーツを着ると、ドーナツチェーン店の陰から、待ち合わせ場所である駅のゲームセンターを盗み見た。
そこには輝馬より数段落ちるスーツを着ている佐藤が、腕時計を見ながら立っていた。
それもそのはず。もう約束の時間を3分も過ぎている。
しかしどうしても首藤灯莉の姿を遠くからでもいいから確認してから合流したい。
そこに少しでも昔の面影が残ろうものなら。
少しでも黒い影があろうものなら。
ーーもうあの恐怖を味わいたくない。
とその時、上着のポケットに入れていたスマートフォンがなり始めた。
【市川晴子】
表示された名前に思わずため息をつきながら、視線はゲーセンに送ったまま通話ボタンをフリックした。
『輝馬?今大丈夫?』
「ああ、大丈夫だけど。まだ仕事中だから早めに済ましてくれると助かる」
佐藤が口を開けたアホ面で空を見上げている。
首藤はまだ来ない。
『日曜日に来た時に……すごく、疲れてたみたいだから……気になって……』
「?」
輝馬は一瞬耳からスマートフォンを離して画面を睨んだ。
階段でも上っているのだろうか。その声は変に途切れがちで、吐息の雑音がひどい。
「ああ、大丈夫だよ。あんなの一晩寝れば治るから」
現に今日は昼まで寝ていた。それで体調はあっという間に元通りだ。
『そう……?なら、よかったけど……んッ……!』
「どうしたの?」
『あ、それから……この間、パンツ、忘れてきたから……大丈夫かなと思って』
細切れの言葉のせいで、会話が進まない。
「パンツなんて何枚もあるから大丈夫だよ。何言ってんの?」
輝馬はいよいよ眉間に皺を寄せながら言った。
「ごめん、マジで仕事中だから」
『あ、ごめんなさい……!最後にこれだけッ……!』
「うん?」
『……愛してるわ。輝馬……!』
吐息交じりのその言葉を最後に、通話は切れた。
(なんなんだ、あのババア……)
輝馬はうんざりしながら上着のポケットにスマートフォンを入れ直した。
過保護にもほどがある。
そしてそれが、長女の紫音にも、末っ子の凌空にもそうならまだしも、長男の自分にだけだから余計に鬱陶しい。
母のそれさえなければ、高いマンション代を払ってまで一人暮らしなんかしないのに。
そのとき、
「お待たせー」
ゲーセンの前で待つ佐藤のもとに、女性が駆け寄った。
水色のギンガムチェックのフリルシャツに、黒のロングタイトスカート。
茶色の髪はアップでまとめられており、そこからカールした横毛が可愛らしい。
(……あれが、首藤か?)
輝馬の記憶の中にいる首藤灯莉とはまるで別人の、美しい女がそこにいた。
表通りに立っている2人の姿がやっと見えるような距離なのに、なぜか首藤はこちらを振り返った。
輝馬を指さしながら佐藤に何かを言っている。
「おーい、市川ー!」
佐藤が叫びながら両手を振ってくる。
それに合わせて、彼女も遠慮がちに会釈をする。
「…………」
輝馬は2人に向けて歩き出した。
学生時代の姿をほとんど思い出せない男と、忘れたくても忘れられない記憶の中の姿とはかけ離れた女の元へ。
◇◇◇◇
「サーモンのたたきとか旨そうじゃね?」
「この、水わらび餅とか食べたい」
「いきなりデザートかよぉ」
輝馬は目の前で並んで座って早々、いちゃつき始めた2人を見た。
「飲み物はどうする?市川は生でいい?」
佐藤がへらへらとメニューの向こうからこちらを覗く。
「あ、ああ」
「私カルアー」
「はいはい。好きねあなたは」
首藤が甘い声を出すと、佐藤が嬉しそうに目を細める。
「……ずいぶん仲いいな。もしかしていい関係とか?」
我慢できずに聞くと、
「まっさかー」
佐藤が笑い、
「1回飲みにいっただけだよねー?」
首藤が身をくねらせる。
「はは。どうだか」
本当はどうでもいいのだが、輝馬は少し呆れたような顔をした。
「違うんだけどなー」
首藤は長い黒髪を耳にかけながら再度メニューを見下ろした。
(……てかこれ、本当に首藤か?)
あんなに遠くにいたのにこちらに気づいた首藤は、まだろくに目も合わせない。
『市川君、久しぶりー』
集合場所で会ったときも、輝馬のネクタイの結び目あたりを見つめていた。
その伏し目がちな顔を盗み見る。
正直、実際に会えば、どんなに痩せていようが、綺麗になっていようが、彼女が持っている独特の雰囲気というか、すえた体臭というか、そういう見た目以外の何かが、7年の時を超えて、自分のセンサーに引っかかると思っていた。
しかし今はそれが全くない。
面影どころか雰囲気さえ感じられない。
確かに、7年という月日は長い。
年頃の女性にとっては余計に。
人生を一転させるほど美しくなることだってあるし、またその逆だってあり得るだろう。
しかしこれはどうだろう。
もはや別人じゃないのかと疑うレベルだ。
「なーに見とれてんだよ!」
ノーマークだった佐藤がメニューの端で輝馬の頭を軽く叩いた。
「高校の時あんなに避けといて、今さら好きになったとかナシだからなー?」
佐藤は声と口では笑いながらも、目だけは本気でこちらを見つめた。
(そういうお前はどうだったんだよ。首藤に対する野郎たちの態度なんてみんな似たり寄ったりだったろうが……!)
胸の内でムカつきながらも、
「バカ、違うよ」
輝馬はおしぼりで手を拭きつつ笑顔を返した。
彼が言う通り、今さら彼女とどうこうなりたいとは思わない。
あんな危ない素質のある女、どんなに綺麗だろうと、こっちから願い下げた。
それに、悪いが女には困っていない。
高校時代から狙っている女もいるし、
目が合うだけでヤラせてくれる女もいるし、
実家にはオモチャだってある。
それより自分が知りたいのはーー。
「…………」
彼女に再び視線を走らせる。
ピンクゴールドにダイヤがついたピアスとネックレスはどっちもChannel。
タイトなロングスカートはDiourの新作。
身に付けているものは城咲と同様にどれも高価なものだ。
さらに彼女に関していえば、ヘアスタイルにも肌にもメイクにも、もしかしたらその抜群のスタイルにも、相当金をかけているのがわかる。
(……なんだ?なんの副業をしたらそんなに儲かるんだ?)
輝馬は運ばれてきたビールを2人のグラスと合わせ、
(絶対につきとめてやる……!)
ジョッキのガラス越しに、首藤を名乗る女を見つめた。
◆◆◆◆
今日は何が何でもその副業についての話まで持っていく。
そういう気概でいたのに、カルアミルクとスクリュードライバーを飲んだ首藤は早々に立ち上がってしまった。
「私、明日は早いから帰るね。あとはお二人でごゆっくり」
「え」
「ええ?」
輝馬と佐藤は同時に彼女を見上げた。
「またね、市川君」
長い髪で陰になった白い顔がふっと笑った。
(やっと目が合った……)
どうでもいいことを思いながら輝馬は軽く手を上げた。
こう言われたんじゃ仕方がない。食い下がっても怪しいだけだ。
あくまでスマートに聞き出せなきゃ意味がない。また次の機会を狙うしかない。
「ええー?そんなん言ってなかったじゃーん」
佐藤はよほどがっかりしたらしく、未練がましく首藤のシャツをつかんだ。
「ふふ。LAINするね」
彼女は佐藤に笑顔を向けると、ハンドバックを拾い財布を出そうとした。
「いやいや、いいから」
輝馬が言うと、「そ?」とピンク色の唇を丸めて、「ご馳走様」と軽やかに言い、居酒屋を出ていった。
◇◇◇◇
「ふううううう」
隣に座る佐藤が謎のため息をつく。
「んで?どうよ」
さらに謎の質問を投げかけてくる。
「どうって?」
輝馬は片目を細めながらジョッキに残った苦いビールを飲みほした。
「とぼけんなよ。美人になったろ、首藤灯莉」
「ああ、まあな。整形でもしてんのか」
軽く言ったつもりだったが、佐藤は妙にまじめな顔をして輝馬を振り返った。
「違えよ。あいつ、努力してダイエットしたんだよ。髪だって、肌だって、サロンやエステに通ってる」
「……だろうな」
相槌は主に話の後半についてのものだったが、佐藤は、
「すげえよ。努力であそこまで綺麗になれるなんてさ」
うっとりするように頬杖をついた。
(うーん、これは……)
その陶酔しきった横顔を盗み見る。
(マジなやつか)
あわよくば、佐藤から首藤の連絡先まで聞ければと思ったが、露骨にそんなことを言えば「何を今さら」と、先ほどの会話のように地雷を踏む可能性もある。
だからと言って、毎回佐藤が同席したんじゃ、副業の話も進まないし、第一、もし佐藤が片思いじゃなく、首藤にもそういう気持ちが芽生えている場合、彼の前じゃ彼女が話さないかもしれない。
「……首藤ってさ。あんな華奢な身体なのに、介護職とかやってんだよ」
「ふうん」
首藤の本職は介護職。
だったら猶更あんな上から下までブランドもので覆えるわけない。
花屋のパートをしている城咲と同じだ。
やはり詳しく聞きたいが、臍を曲げた佐藤に、元3年4組のメンバーにあることないこと吹き込まれるのも嫌だ。
金曜日のワイプスはもはや自分にとって、大事な人生の一部なのに。
「自分がおばあちゃん子だったから、恩返しがしたいんだってさ。すげえよ」
こうなると状況が状況だけに、副業のアドバイザーとして安牌なのは首藤ではなくむしろ城咲。
興味があったら教えると自分から言ってきたのだし。
市川家を含めて他言無用を約束させてから、城咲に話を聞いた方が早いかもしれない。
「なあ市川、俺さ」
近所づきあいもある手前、怪しいビジネスなら教えないだろうし、悪徳な勧誘もしないだろう。
よし。そうと決まればーー。
「首藤とヤッたんだよ」
「!?」
輝馬は佐藤を振り返った。
(こいつ……マジか……)
唖然とする。
だって首藤と街中で偶然会ったと言っていたのが、この間の金曜日。それからまだ1週間も経ってない。
「なんで……?」
思わず聞くと、佐藤は後頭部をガシガシと搔きながら言った。
「なんで。うーん。なんで……か」
その勿体ぶった返答に多少イラつく。
「いやいや。なんでそうなったんだよ?」
輝馬が眉間に皺を寄せて聞くと、佐藤は気色の悪い上目遣いで見つめた。
「実は偶然会ったって日、そのまま飲みに行って」
「んで?」
「……ええと、流れで?」
「……………」
輝馬は口の端を指で搔きながら、想像した。
街中で昔の同級生に会う。
綺麗になった同級生に面くらいながら、懐かしさもあって飲みに誘う。
男女のあれこれを経験し、大人になった二人。
何となく酒の雰囲気も加わって、そのままホテルへ。
もちろんあり得ない話ではない。しかし、
(……あの首藤灯莉だぞ?)
もし自分なら。
首藤がどんなに美しく妖艶に誘ってきたとしても、高校時代の彼女の顔が浮かんだら、一瞬で萎える。
「……あー、ね?」
輝馬はこみ上げてきた吐き気を押し込めるように、日本酒を割るように準備してあった水を空のコップに注ぎぐいと飲み干した。
「いいんじゃない?このまま付き合っちゃえば」
「うーん。できれば、そのつもり」
(……あー、そういうこと)
高校時代に一悶着あった輝馬と首藤を積極的に会わせたのも、今の彼女に輝馬を思う気持ちがないことを確かめると同時に、輝馬にも「手を出すなよ」と釘を刺すためだったに違いない。
「――――」
待ち合わせ場所で空を見上げていた佐藤の姿を思い出す。
彼にとっては、今夜は一世一代の博打だったってわけだ。
つまりは首藤が輝馬との再会をそこまで喜ばず、しかも仕事を理由にさっさと帰ったことで、彼はある意味その賭けに勝利したのだろう。
それならそれで、もう触れないでいよう。
自分だって首藤や佐藤に変に巻き込まれて、肝心の峰岸まで失ったら元も子もない。
(しっかし……)
輝馬は口の中だけで笑った。
美しくなった同級生と再会し恋に落ちるなんて、安い恋愛シミュレーションゲームのようだ。
(……だがこの場合、ヘタに別れることなく結婚までいかないと、死にゲーだけどな)
今度はこみ上げる笑いを抑えるため、輝馬はもう一口、冷たい水を飲みこんだ。
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