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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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藤色の鼻緒に足を入れると、指の股に、綿がふわりと当たった。
擦りむけた皮が、少しも痛まない。
私は草履を履いたまま、しばらく廊下に立ち尽くしていた。
朝の厨房で、お礼を言うつもりだった。
けれど侯爵様は、私が口を開くより先に「今朝は早く出る」と言って、皿だけ置いて出ていってしまった。
目も合わせなかった。
皿の上の卵焼きは、端まできれいな黄色だった。
*
その日の午後、玄関が騒がしくなった。
「おう、邪魔するぜ」
酒焼けした大きな声。将臣叔父様だった。山高帽を真柴さんに放り投げるように渡し、葉巻の匂いを撒きながら式台を上がってくる。
その後ろに、もう一人。
派手な縞の背広に、カンカン帽。ポマードで固めた髪。
隆之様だった。
嫁の務めとして、私は玄関の脇に膝をついて頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
「やあ、これはこれは。噂の三人目の奥様だ」
隆之様は帽子を取って、大げさに会釈した。その右手が、私の目の前を横切る。
薬指に、金の指輪。
印台の平たい面に、紋が彫ってある。久遠寺家の紋を、少し崩したような形。分家筋が使う替え紋だろうか。
松葉堂のご主人の声が、耳の奥でよみがえった。右手の薬指に、金の太い指輪。平たいところに紋が彫ってあるやつさ。
「おや」
隆之様が、私の顔を覗き込んだ。
「奥様、どこかでお目にかかりましたっけねえ。つい最近」
「婚礼の席で、ご挨拶を」
「いや、もっと最近の、暗いところでさ」
軽い声だった。目だけが、笑っていない。
「人違いでございましょう」
私は頭を下げたまま、そう答えた。
「隆之、ぐずぐずするんじゃねえ」
叔父様がだみ声で呼ぶ。隆之様は肩をすくめて、廊下の奥へ歩いていった。
*
叔父様は、まっすぐ家令室へ向かった。
私は大奥様に言いつけられて、お茶の支度を女中に頼みに行くところだった。家令室の前を通りかかると、障子の向こうから声が漏れてきた。
「……今月の分は、どうなってる」
「将臣様。御前のお許しがございませんと」
「固えことを言うなよ、真柴。おめえが帳面をうまく回してくれりゃあ済む話じゃねえか。いつもみてえに」
しばらく、沈黙があった。
それから、紙が擦れる音。
「……これきりに、お願いいたします。御前には、私から申し上げておきますので」
「わかってるって。持つべきものは、できた家令だ」
叔父様の笑い声が響いた。
私は足音を殺して、その場を離れた。
いつもみたいに。
真柴さんは、侯爵様の知らないところで、叔父様にお金を渡しているのだろうか。それとも、侯爵様も承知の上で、ただ体面を取り繕っているだけなのか。
この家の帳面は、真柴さんの手の中で回っている。
廊下の角で、侯爵様とはち合わせた。
外出から戻ったばかりなのか、黒い三つ揃いに手袋をはめたままだ。
家令室から、叔父様と真柴さんが出てくる。
「おう、冬馬君よ。邪魔してるぜ」
叔父様が手を挙げた。侯爵様は足を止め、叔父様を見た。
「叔父上。金の話なら、もう済んだはずです」
「なに、親戚同士の世間話よ。水臭えことを言いっこなしだ」
侯爵様は答えずに、叔父様の後ろの真柴さんに目を移した。
真柴さんは、静かに頭を下げた。
「御前。お話は、後ほど書斎で」
「……ああ」
それだけだった。侯爵様は叔父様の脇を素通りして、洋館へ向かっていった。
叔父様が、聞こえよがしに舌打ちをした。
「相変わらず、愛想のねえ野郎だ」
*
叔父様たちが大奥様の居室へ挨拶に行っている間に、私は渡り廊下で侯爵様に追いついた。
「旦那様」
侯爵様が振り向く。
私は、足元を見せるように、少しだけ裾を引いた。藤色の鼻緒。
「草履を、ありがとうございました」
侯爵様の視線が、私の足元に落ちた。
それから、すぐに逸れた。窓の外の、藤棚のほうへ。
「……足に合わなければ、替えさせる」
「ぴったりです。どうして、私の寸法を」
「昨夜、見た」
侯爵様はそう言って、それ以上何も言わずに背を向けた。
書斎の扉が、ぱたんと閉まる。
閉まる直前、撫でつけた黒髪の陰から覗いた耳が、赤く染まっていた。
私はしばらく、閉まった扉の前に立っていた。
昨夜、門灯の下で。あの人は、私の足元を、あんなに長く見ていた。
怒っていたのではなかった。寸法を測っていたのだ。
私は口元を袖で押さえた。そうしないと、誰もいない廊下で笑ってしまいそうだった。
*
大奥様の居室では、叔父様が床柱を背に胡坐をかいていた。
大奥様は扇を膝に置いて、叔父様の大声を、聞いているのかいないのかわからない顔で受け流している。
私は末席でお茶をお出しした。自分の茶碗には、手をつけない。大奥様はそれを横目で見たが、もう何も言わなかった。
百合絵様が、学校の友達のところから戻ってきて、挨拶に顔を出した。
隆之様を見た途端、その頬から血の気が引いた。
「やあ、百合絵ちゃん。大きくなったねえ」
隆之様は立ち上がって、百合絵様の肩をぽんと叩いた。そのまま、誰にも聞こえない声で何か囁く。
私の座っている場所からだけ、唇の動きが見えた。
しんじゅ。
百合絵様は顔を伏せて、「ごきげんよう」とだけ言って、逃げるように下がっていった。
「なんです、あの子は。挨拶もろくにできないで」
大奥様が眉をひそめる。
「年頃ですからな、伯母上。照れてるんですよ」
隆之様は、何事もなかったように座り直した。
叔父様が、酒臭い声で笑う。私は膝の上で、手を握りしめていた。
この人は、大奥様の目の前で、平気で娘を脅す。
*
夕方、叔父様たちが帰り支度を始めた。
私は庭の藤棚の下で、散り始めた花房を見上げていた。
屋敷の中では、誰の目があるかわからない。けれど、考える時間が欲しかった。
指輪は一致した。
松葉堂のご主人に会わせれば、きっと「この人だ」と言ってくれる。恐喝状の「様」も、鉛筆の溝も、隆之様に繋がる。
けれど、それを誰の前で、どう見せればいいのか。
大奥様の前に出せば、百合絵様の恋文のことも一緒に知れてしまう。侯爵様には言わないと約束した。
千鶴さんなら、どうしただろう。
女学校の頃、匿名の落書きの濡れ衣を着せられた下級生がいた。千鶴さんは私の手を引いて講堂の掲示板の前まで連れていき、皆の見ている前で、落書きと本当の書き手の字を比べさせた。
栞の目なら、誰も文句は言えないわ。そう言って笑っていた。
あの人は、隠れて片をつけるということを、しない人だった。
「三人目の奥様」
背後から、声がした。
振り向くと、隆之様が藤棚の柱にもたれていた。いつの間に来たのだろう。カンカン帽を指先でくるくる回している。
「こんな所で、何を考えてるのかなあ」
「藤を見ておりました」
「藤ねえ」
隆之様は散った花びらを靴の先で踏みにじった。
「いい草履だ。冬馬兄さんの見立てかい。あの朴念仁が、女の履物なんぞ選ぶとはねえ」
私は答えなかった。
隆之様が、一歩近づく。ポマードと煙草の匂いがした。
「ねえ、奥様。浅草は面白いところだろう。六区の活動小屋なんか、暗くてさ。誰がどこに座ってるか、わかりゃしない」
「……何のお話でしょう」
「区役所の前の代書屋なんかも、面白いよね。いろんな人が来る」
背中が、すうっと冷たくなった。
見られていた。昨日のことも。
隆之様は、私の顔色を楽しむように眺めて、にやりと笑った。それから、耳元に顔を寄せた。
「三人目の奥様。千鶴さんも、そうやって嗅ぎ回ってたっけねえ」
コメント
1件
うわぁ〜今回もめっちゃエモかったしスリリングだった😭💕💕 まず侯爵様が草履の寸法を「昨夜見た」って…ッ!門灯の下であんなに見つめてたの、怒ってたんじゃなくて主人公の足を測るためだったの!?どんだけ不器用なツンデレなのこの人…!!!あの耳が赤くなってる描写にもう完全にやられたわ…🫠💘 そして隆之様の指輪が松葉堂のご主人の証言とピッタリ一致!!でも「千鶴さんもそうやって嗅ぎ回ってたっけねえ」のfinal line…これやばすぎる。まさか千鶴さんの死にも関わってるの…?背筋ゾクゾクした… 大正ロマン×謎解き×契約結婚、全部が絡み合ってきて続き気になりすぎるよ〜〜!!次話も全力待機してます💪🌸