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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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千鶴さんも。
その名が隆之様の口から出た途端、藤の匂いが急に遠くなった。
「……千鶴さんが、何を嗅ぎ回っていたと仰るのです」
声が震えないように、腹に力を入れた。
隆之様は、楽しそうに目を細めた。
「さあねえ。僕もよくは知らないよ。ただ、変わった奥様だったなあ。家じゅうの古い紙を引っ張り出しては、明かりに透かしてさ。書生部屋の反古まで覗いてたっけ」
帽子が、指の先でくるりと回る。
「で、崖から落ちた」
軽い声だった。天気の話でもするような。
「奥様も、あんまり紙ばかり覗いてると、足元が見えなくなるよ」
「隆之! 帰るぞ」
玄関のほうから叔父様の声がした。隆之様はカンカン帽をかぶり直し、私に片目をつぶってみせた。
「じゃあね、三人目の奥様。また浅草で」
口笛が遠ざかっていく。
私は藤棚の柱に手をついた。指先が、ざらついた木肌に食い込んでいた。
*
その夜、私は眠れなかった。
寝台の上で、千鶴さんの手紙を何度も読み返す。
この家の紙は嘘をつく。
千鶴さんは、この家で古い紙を明かりに透かしていた。隆之様が言ったのは、たぶん本当のことだ。嘘をつくなら、もっとましな嘘をつく人だ。
千鶴さんは、何を見つけたのだろう。
見つけたから、崖から落ちたのだろうか。
隆之様は知っている。私が代書屋を回ったことを。
あの人の後ろに、誰かがいるのか。それとも、ただの意地の悪い遊び人が、面白がって私の顔色を見に来ただけなのか。
わからない。
わからないことばかりが、増えていく。
明け方、ようやくうとうとしたと思ったら、もう厨房に下りる時刻だった。
侯爵様は、私の顔を見るなり言った。
「昨日、庭で隆之と何を話していた」
匙を取り落としそうになった。
「……藤の話を、少し」
「あれが藤など見るものか」
侯爵様は紅茶の茶碗を私の前に置いた。いつもより、置く音が硬い。
「隆之には近づくな。あれは、人の弱みを嗅ぎつけて、金に換える。昔からそうだ」
「昔から、とは」
侯爵様は答えなかった。左の眉を指でなぞり、それから、ぽつりと言った。
「千鶴も、あれを嫌っていた」
二人目の奥様の名を、この人の口から聞くのは初めてだった。
私は紅茶の湯気の向こうの顔を見つめた。けれど侯爵様はもう、卵を割る手元に目を落としていた。
「何かされたら、すぐに言え。何でもだ」
はい、と答えた声は、自分でも驚くほど小さかった。
*
その日の夕方、部屋の扉が叩かれた。
侯爵様の側の扉ではない。廊下に面した扉だ。
開けると、百合絵様が立っていた。
日曜日で、女学校の袴ではなく、薄桃色の銘仙を着ている。手には、小さな紙の箱を抱えていた。
「……入ってもいい?」
洋館の二階まで、百合絵様が来るのは初めてだった。
百合絵様は、部屋の中を珍しそうに見回した。
寝台、洋箪笥、書き物机。机の上の活字の木箱。
「なあに、これ」
「活字です。嫁入り道具に持ってきたの」
「嫁入り道具に、鉛を?」
百合絵様は呆れた顔で一本つまみ上げ、裏返しの字を電灯にかざして、首をかしげた。それから、そっと箱に戻した。
私は、松葉堂のことを話した。
差し替えの「様」。金の指輪。機械を借りて自分で打った男。鉛筆で手紙を写していた男。
「恐喝状を打ったのは、隆之様ご自身です。お金を取ろうとしている誰かなんて、初めからいないの。真珠を貸せと言ったのも、百円を出せと言ったのも、同じ人です」
百合絵様は、長いあいだ黙っていた。
それから、膝の上で拳を握った。
「……あたくし、真珠を渡すところだった。隆之さんが、ほかの誰かから手紙を取り返してくれるんだと思って」
「渡しても、終わりませんでした。次は、何を貸せと言ったか」
「わかってるわよ」
百合絵様は唇を尖らせた。縁側で見せるいつもの棘が、少しだけ戻ってくる。それが、なぜか嬉しかった。
*
窓の外が、藍色に沈んでいく。
百合絵様は帰ろうとしなかった。寝台の端に腰かけて、足をぶらぶらさせている。
「隆之さん、昨日、千鶴お姉様のこと何か言ってた?」
どきりとした。
「……どうして」
「あの人、千鶴お姉様のことが嫌いだったのよ。前に、叔父様と来たとき、書生部屋で何かしてるのを千鶴お姉様に見つかって、こっぴどく叱られたの。それからずっと、陰で悪口ばっかり」
書生部屋。隆之様は、千鶴さんのときから、同じことをしていたのだ。
「千鶴お姉様はね、あたくしに優しかったの」
百合絵様は、膝を抱えた。
「お母様は、あたくしが活動写真を見るのを嫌がるでしょう。でも千鶴お姉様は、学校の帰りに待っていてくれて、一緒に市電で浅草へ行ってくれたの。お母様には、日本橋で買い物してたことにして」
華族の奥様が吊り革など、と大奥様はお嘆きでした。真柴さんの声を思い出す。
「活動を見たあとは、いつも十二階に登ったわ。千鶴お姉様は、てっぺんから東京を見るのが好きだったの。あっちが神田、あっちが麻布、って指さして。あたくしは怖くて、窓の柵にしがみついてたけど」
百合絵様は、小さく笑った。
「お姉様ったら、十二階の上で、自転車に乗りたいわ、なんて言うのよ。変な人」
笑った顔が、ふいに崩れた。
「……亡くなる、少し前にね」
声が、掠れる。
「千鶴お姉様、一人で十二階に行ったの。帰ってきて、あたくしに言ったの。十二階に、大事なものを預けてきたのよ、って。何を、って訊いたら、内緒、って。今度一緒に取りに行きましょうね、って」
百合絵様の大きな目から、涙があふれ出した。
「でも、行けなかった。夏に鎌倉に行って、それっきり。あたくし、お姉様が何を預けたのか、ずっと知らないままで……」
百合絵様は、声を上げて泣いた。
子供のように、顔をくしゃくしゃにして。
私は隣に座って、その背中をさすった。
千鶴さん。私も、と言いそうになった。私も、あの人に優しくしてもらった。あの人の字で、手紙をもらった。
喉元まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。
言えば、なぜこの家に来たのかまで、話さなければならなくなる。
*
しばらくして、百合絵様は洟をすすりながら、抱えてきた紙の箱を開けた。
「これ、見せたくて持ってきたの」
中から出てきたのは、一枚の絵葉書だった。
表は、凌雲閣の写真。赤煉瓦の塔が、手彩色の青い空にそびえている。
裏返すと、鉛筆の走り書きがあった。郵便で出したものではないらしく、切手も宛名もない。差出人の名もない。
「百合ちゃんへ。今日は一人でてっぺんまで登りました。鳥居坂のお屋敷が見えた気がします。八階の写真屋さんで一枚撮ってもらったの。出来上がったら、一緒に取りに行きましょうね」
日付は、大正十年七月二十日。
跳ねるような字だった。「す」の結びが、くるりと大きい。行の終わりが、いつも少しだけ右へ逃げる。
女学校の頃、回し読みの帳面で、何百回と見た字。
「千鶴さんの字ね」
口が、勝手に動いていた。
「この『す』の結び。いつも、こんなふうに大きく……」
言ってから、気づいた。
百合絵様は、まだ誰が書いたとも言っていない。
隣で、泣きはらした目が、ゆっくりと私に向けられた。
「……どうしてお義姉さんが、千鶴お姉様の字を知っているの」
コメント
1件
うわあ、この16話は千鶴さんの存在が一気に色づいてきたね。崖から落ちた元奥様の話を隆之様があまりに軽い口調で話すから、ぞっとしたよ。それでいて、隆之様自身も千鶴さんに叱られた因縁があったっていうのが伏線として効いてる。 そして百合絵様が千鶴さんの思い出を語る場面、特に十二階のてっぺんで「自転車に乗りたい」って言った話は切なくて胸がぎゅっとなった。あの預けてきた「大事なもの」が何なのか、すごく気になる…。 最後、つい千鶴さんの字の特徴を言ってしまった主人公、これからどうなるんだろう。百合絵様の「どうして知ってるの」の目線、重かったね。次の話が待ちきれない。