アバドンが立ち去ってから数時間、ヒルデガルドは目を覚ます。薄ぼんやりとした視界がくっきり映るまでの時間は数分あって、上体を起こした姿勢のまま、じっと周囲を見渡して状況を理解する。
「ふう、これからか。さて、記憶の封印とやらは何をされたのか知らないが、ひとまず無事のようだな」
ちらと視線を向けた先で倒れる巨大なオークの死骸を見て、アバドンがやったのだろう、と納得する。立ち上がって伸びをしてから、今度はすぐ傍で眠るイルネスを見つけ、彼女はぴたっと動きを止め、じっくり眺めた。
「誰だ、この子は?」
思い出せない。見るからに魔物だが、幼女だ。八歳、いや十歳くらいだろうか。一緒に誰かと来た記憶はあったが、誰とだったかは思い出せず、まさかこんな小さな子供を連れてくるはずがないし、と首を傾げた。
「ん、んん~。よう寝た。……お! ヒルデガルド、ぬしは先に起きておったのか。すまぬのう、起こしてくれれば良かったんに」
「いや、私もさっき起きたばかりで。というか、君は誰だ?」
風の音が過ぎ去り、沈黙が訪れる。二人はしばらく見つめ合い、イルネスの表情がぎゅっと苦々しい顔つきになって、彼女に腹を立てて睨んだ。
「なーにを言うとるんじゃ、おのれは。どつきまわすぞ」
「可愛い顔をして怖いことを」
「阿呆、ぬしが儂を誰だとぬかすから……あ、そうか」
ぽん、と手を叩く。アバドンが彼女の記憶を封印しているのだから、ある程度のことが思い出せないのも仕方ない。詳しく話を聞いてみると、ヒルデガルドは「色々欠けていて思い出せない。特に、仲間のことは分からない」と答えた。
クレイたちと繰り広げた凄絶な戦いは記憶しているものの、誰と一緒に戦ったか。その顔や声が思い出せないでいた。
「すまない。色々と自分のしてきたことの大体は記憶しているんだが、誰の顔も、名前も、声も、まったくなんだ。君のことも忘れてしまっている」
「ふうむ。致し方ないのう、頼りない奴め」
すっくと立ちあがって、幼女は心許ない胸を張って言った。
「儂こそは大魔王イルネス・ヴァーミリオン! かつてぬしが倒した、最強のデミゴッドであるぞ。まあ、こんなにちんまい姿だと、思いつきもせんじゃろうが、そこはそれ、あえて呑み込んでくれると助かるのう」
まじまじと見つめて、足のつま先から頭のてっぺんまで見上げ、それでもヒルデガルドは首を傾げつつ、なんとなく『仲間だったような気がする』くらいに思い始めた。しかし、その弱すぎる魔力には、なんとも言えぬ哀愁があった。
「……で、君が本当にイルネスだとして、なぜそんな弱っちく?」
「平気な顔して傷口を抉ってくるんじゃないわい」
ぺち、と頬を引っ叩くが、ヒルデガルドはびくともしなかった。
「ともかくじゃ。ぬしはこれから、アバドンの言うたとおり、五年の間に魔力を取り戻さねばならん。無論、儂もじゃが、方法は心得ておるか?」
「正確には分からない。だが、修練は必要になるだろう」
二人揃って崩れかけの魔核だ。イルネスに関しては魔物特有の捕食行動によって回復していくが、人間はそうもいかない。成り立ちに少々の異なりが存在し、遠い昔から正確に解明できていない。ただ修練を行うことで徐々に元の魔力へ近付くことがあるのも事実だ。だから、ヒルデガルドは五年の間に完全復活を遂げるための手段を見つけなくてはならなかった。
「とにかく、ここがどこかを知ることが最初の課題だな」
紫紺の輝きを放つ結界に手を触れると、硝子が割れるように砕け散って消滅する。この瞬間から、五年。早々に探索を始めようとトランク片手に歩きだそうとして、ぺたぺた追って来たイルネスが「まあ待て、儂は知っとる」とローブの裾を掴む。
嗅いだことのある獣の臭いを感じて、彼女は嫌な顔をした。
「なんだ、何か嫌な記憶でもあるのか?」
「うむ。まだぬしに倒される前の話じゃが……」
最強の魔物として君臨したイルネスは、多くの魔物を屈服させ配下に加えようとしたことがある。だが、そのうちディオナも含めて、彼女に敵対的で、いっさいの降伏もせず、殺し合いを演じた者たちがいる。その中で、記憶するかぎり最も恐ろしい、イルネスが相討ちか、あるいは敗北する可能性さえ覚悟した者が脳裏を過《よぎ》った。
「小さな島……ホウジョウ。そう名付けられておる。そして、ここにはおるんじゃ。この島だけを縄張りとして世に出ず、ただ己が好奇心に従うだけの魔物が」
「どんな奴なんだ、強いのか」
ヒルデガルドの問いに、彼女はこくんと頷く。
「忌憚なく、強いと言えるじゃろうな。今の儂らが会えば、そやつの機嫌ひとつで塵になるのは間違いない」
ローブの裾を掴む手にきゅっと力が籠る。背筋が嫌な予感にざわつくほど、イルネスは、その魔物に会いたくないと思っていた。
「儂が最強だと思い込んでいるだけで、実際にはヤツのほうが強かったのやもしれんと思うくらい、小さいくせに強い奴じゃった」
縄張りだと示すようにぷんぷんと鼻を衝く血の臭い。見目には美しい森でも、どれだけの命が潰えたのかも分からない、魔物には分かる夥しい死の香り。
「そやつの名はヤマヒメ。鬼人《オーガ》と名乗る魔物たちの頭領じゃ」
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