森の中を進むにつれ、鬼人の臭いが濃くなってきたのにイルネスが強い警戒心を抱く。全身がピリつくほどの気配。魔物の中でも上位種でありながら、小さな島からいっさい出ようとしない代わり、自分たちの縄張りを荒らされるのを酷く嫌う。
それが鬼人の性質であり、たとえ相手が自分たちより弱く脆い生物だったとしても関係ない。邪魔だと判断したら、即座に殺すのが彼らだ。できれば出会いたくないが、それでもヒルデガルドが迷わず進むので、イルネスはついていくしかなかった。
「のう、本当に行くのか。引き返さんのか?」
「なぜ? 興味が湧くだろう、鬼人など見たことがない」
ヒルデガルドの瞳は燦々と輝き、期待を色濃く宿す。
鬼人と呼ばれる種を大陸で見たことがない彼女にとって、遠い場所に巣くう新種の魔物の存在は興味が尽きない。力を取り戻すきっかけになる可能性もあったし、生態を詳しく調べ、歴史に新たなページを刻めると喜んだ。
「……分からんのう、人間のそういうところが」
「わざわざ危険に近寄る意味が、という話か?」
「話の通じる相手でないやもしれんぞ」
忠告を受けても、彼女はまったく動じなかった。
「通じないかどうかは会えば分かることだ」
「仕方ない奴じゃのう。なぜそうまで自信に溢れとるのか」
「自分の運って奴を信じてるだけさ」
そう言いながら、大丈夫だという確信が、ヒルデガルドにはある。アバドンがわざわざ危険な場所を選びながら、弱く脆い彼女を置いていく。その理由が必ずある。無理難題を押し付けても彼は愉しくないからだ。
ならば行くしかない。鬼人がいる場所へ。
「楽しみだな。その鬼人とやらに会うのが」
「儂は全然楽しみじゃないわい。あんな奴に会いとうなど──」
ぬうっと空から影が差す。木々をかき分けて飛びだすように鳥たちが逃げ出すと、二人の前には、すらりと背の高い女が振ってくる。白く長い髪をぶわっと振り乱し、琥珀の瞳が二人を射抜く。ぎろりと白い牙を見せながら大地を踏んだ者の姿に、イルネスはひゅっ、と短く息を吸い込んで固まった。
「おうおうおう! ようやっと目ぇ覚ましたか。わちきと会いたくねえなんぞとほざいた小娘よ、そりゃあつまりここで死んでも構わねえって話かな!?」
ひと吼えで分かる、圧倒的な強さ。ヒルデガルドも言葉を失うほどの強烈な迫力。名前を聞かずとも、それが誰なのかはすぐに分かった。
「君が、ヤマヒメだな?」
呼ばれてヤマヒメは手に持ったひょうたんの栓を抜き、中にたっぷり注いだ酒をぐいっとひと口飲んで──。
「いかにも! わちきこそがヤマヒメ、我が国、ホウジョウへよう来なすった、お客人! あのクソったれのよう分からん骸骨野郎が連れてきたはいいが、ずうっと眠っているから気になっておったところだ。どうだね、具合は?」
鼻がまがりそうなほど強い酒の臭い。彼女の吐息によるものなのか、ヒルデガルドもイルネスも、その酒に満ちた空気にあてられて体の制御が利かなくなる。
「こ、れは……なんだ……酔ったみたいな……?」
「おお、こいつはすまねえ。わちきの|気《・》が悪さをしとるらしいな」
ひょうたんの栓をして、ヤマヒメが息を大きく吸い込んで空に向かってふうっと吐き出すと、周囲に満ちていた酒の臭いはあっという間に消え失せた。
同時に、二人の身体もふわっと軽くなる。
「わちきの能力でなァ。酒を飲んだあとは、こんなふうに周りを酔わせちまう。同族には大した効き目もねえし、酒を飲んで遊んで暮らすのが当たり前でね。気を遣うのが遅れちまって申し訳ねえ」
「いや、構わない。私たちこそ勝手に歩き回って……」
すっ、と手を出して制したかと思うと、ヤマヒメはくっくっと笑いながら首を横に振って「あの骸骨野郎は気に食わねえが」と呟いて。
「てめえらがわちきらの庭を荒らしたり、大事なもんを盗んだりしねえかぎりは、手荒なことはしねえや。その物怖じしねえところが気に入った!……なあ、竜のわらべや。てめえも、今のその姿でわちきとやり合うのは嫌だろう?」
ひょうたんの栓に手を伸ばす。ヒルデガルドが、すっと手を重ねた。
「おっと、わりぃ。そうだった、そうだった!」
「癖のようなものか。しかし、随分古い容れ物を使うんだな」
「カッカッカ! 味わいってのがあんのよ、味わいってのが!」
腰紐に挟んで、彼女は愉し気に言った。
「大陸様じゃあ、ひょうたんってのはそんなに古いのかい?」
「まあ、もっと便利なもので溢れてるからな」
「ほお~っ。人間様ってのは発明が得意と聞くが、本当らしい」
ヒルデガルドの頭をヤマヒメは「えらいえらい」と撫でた。彼女からみれば、ヒルデガルドもうんと子供なのだ。
「ようし、じゃあお互いに敵意がないって分かったところで、わちきらの里へ案内してやる!……だが、無礼は働くんじゃあねえぞ。そのときは命の保証もしねえ」
脅しではない。さきほどまで愉快そうだった瞳が、途端に殺気を帯びて二人を映す。一瞬、息が出来なくなる。ヒルデガルドとヤマヒメの鼻先が触れあい、酒の臭いがふわっと漂った。いつでも首を引き千切ってやると言わんばかりだった。
「何が無礼に当たるかは知らないが、気を付けよう」
「……気の強ぇ娘だのお! 気に入った!」
首に手を回して抱き寄せ、かっかっとまた笑って。
「ようし、では行こう、わちきの塒《ねぐら》へ!」
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