テラーノベル
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――何も、来ない。
そのはずだった。
「んっ」
鼻の奥を抜ける青く澄んだ懐かしい香りに、視界がぼんやりと水膜に霞む。
それを感じたと同時、舌の奥で何かが弾けた。
瑞々しい芳香のあとを追って広がる初恋のように胸を刺す酸味に、じわりと唾液がにじむ。
少し遅れて、やわらかな甘みが静かに口の中へほどけていった――。
それは、リリアンナのせき止められていた記憶の澱を静かに溶かして……。
柔らかな新緑で心を撫でられるような切なさに視界をにじませたリリアンナは、気づけばここではない遠い季節の匂いの中へ立っていた。
(そう、ミチュポムの実は、――こんな味だった……!)
息が止まる。
指先の力が抜け、かけらが皿へと落ちた。
胸の奥が、強く締めつけられる。
今までとは、違う――。
両親を亡くしてからずっと……。
リリアンナはこんなふうに味を感じたことは、一度もなかった――。
「……リリアンナ、様?」
ナディエルの声が、遠く聞こえる。
うまく、答えられない。
喉が、震える。
ランディリックがどうしたらいいのか分からないみたいに、リリアンナの肩へそっと触れる。
「私……」
ぽつりと、言葉が零れた。
「分からなくなっていたんです。……両親が亡くなってからずっと……。何を食べても何の味もしなかった……」
そのまま、言葉が続かない。
けれど、それで十分だった。
ランディリックが、わずかに息を呑んだ。
ほんの一瞬。
それだけのことなのに。
なぜか、リリアンナは彼から目を離せなかった。
視線が、ゆっくりとリリアンナへ合わせられる。
けれど――その奥に、いつもとは違う躊躇いのような影があった。
何かを言おうとして、やめたような。
伸ばしかけた手を、引いたような。
そんな、わずかな揺らぎ。
「……リリー」
低く、静かな声だった。
けれど、どこかかすれて聞こえた気がした。
それ以上は、何も言わない。
ただ、見ている。
まるで――見落としていたものを、確かめるように。
その視線に、逃げ場はないはずなのに。
(――どうしてランディが泣きそうな顔をしてるの?)
ランディリックの表情はいつも通り凛として見えるのに、何故か不思議と、そう思った。
リリアンナは、もう一度、実に手を伸ばす。
同じように、口に運ぶ。
かじる。
今度は、はっきりと……酸味も、甘みも、香りも……。すべてが、確かにそこにあった。
胸の奥に、ゆっくりと〝美味しい〟という感情が広がっていく。
――戻ってきたのだと、わかる。
味も。
記憶も。
そして――。
自分は食べることが大好きな女の子だったという、忘れかけていた想いも……。
芙月みひろ
コメント
1件
ランディ、リリーの味覚障害?に気づけていなかったことにショックを受けてるのかな?