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第7話 賭ける者の微笑み
週の初め、アパートの廊下に新聞紙が散らばっていた。
拾い上げると、すべて競馬の欄が赤ペンで丸く囲まれている。
二色の扉の前には、青年がしゃがみ込んでいた。
「すみません、それ……」
澪が声をかけると、彼は笑って振り向いた。
髪は砂色、軽く無造作に流され、目はいたずらっぽく澄んだ焦げ茶。
白いシャツの袖をまくり、手首には古びた腕時計。
数字がすべて消えていて、ただ針だけが回っていた。
「隣の人? 俺、賽目蓮(さいのめ れん)。馬と風と数字の味方」
そう言って、新聞をぱらぱらと広げた。
夜になると、彼の部屋から実況中継の音が聞こえた。
歓声と、遠くで蹄の響くような低音。
澪は壁越しに聞きながら、
自分の心まで走っていくような高揚を覚えた。
数日後、彼がドアを開けて声をかけた。
「一緒に観ない? ひとりで当たっても面白くないんだ」
部屋の中には、レース映像が映る古いテレビ。
テーブルの上にコーヒーとポテトチップス。
空気は煙草の香りと、どこか懐かしい埃の匂いで満ちていた。
蓮は真剣な眼差しで画面を見つめていた。
ゴールの瞬間、彼は笑って手を叩いた。
「負けた!」
「そんなにうれしそうに言う人、初めて見た」
澪が笑うと、彼は少し照れたように肩をすくめた。
「勝つのは偶然。
でも、“賭ける時間”は続けられる。
それが一番、難しいんだよ」
それから澪は、週に一度だけ彼の部屋に通った。
レースを観ながら、少しの会話と笑いを交わす。
不思議と、心がやすらぐ。
ある日、彼が突然言った。
「俺、昔、全部失ったんだ。
でも、この部屋だけは残った。
賭けるより、生きるほうがずっとギャンブルだな」
澪は言葉を失い、ただその横顔を見つめた。
夕方の光が彼の頬を照らし、
焦げ茶の瞳が一瞬だけ、水面のように揺れた。
次の週、澪が訪ねると、部屋は空っぽだった。
テーブルの上に、腕時計がひとつ残っていた。
針は止まり、ガラス面に曇った指文字が残っている。
——「続けること、もう少し君に任せた」
二色の扉の紫が完全に灰色に変わっていた。
澪はその前で立ち尽くし、
ポケットの中の止まった時計を握りしめた。
その瞬間、風の音が廊下を抜けた。
小さな蹄の音が遠くで鳴り、
澪の頬を優しく撫でた。
まるで、蓮の微笑みがまだそこにあるように。