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第8話 絵描きの部屋
ある朝、日野澪が出勤のために廊下を通ると、
二色の扉の前に一枚のキャンバスが立てかけられていた。
まだ描きかけの絵には、アパートの外壁と、灰色と紫の扉。
その前に立つ自分の横顔までが、淡く塗られている。
「……どうして、私を」
声を出すと、扉がゆっくり開き、中から絵の具の匂いが流れ出た。
男が振り向く。
シャツの袖はまくり上げられ、指先は色とりどりの絵の具で染まっている。
髪は少し長めの茶色で、前髪が目にかかっていた。
目の色はやわらかな灰緑で、光を反射して金の粉のように輝く。
「隣の人を描いてみたくなって」
彼は笑いながら、筆を置いた。
「ごめん、驚かせた?」
澪は首を振る。
絵の中の自分は、いつもの自分よりずっと穏やかに見えた。
その夜、男――**朝霧 縁(あさぎり えにし)**の部屋から、
柔らかいクラシック音楽と筆の音が聞こえてきた。
それは水の音にも似ていて、心を落ち着かせる。
数日後、澪は彼の部屋に招かれた。
壁一面に絵が飾られている。
風景画、人物画、どれもどこか懐かしい。
だが、不思議なことに、すべての絵に“紫”が少しだけ混ざっていた。
「この色、何か意味があるの?」
澪が尋ねると、縁は少し考えてから答えた。
「人が消える前に、必ず残していく色なんだ」
その言葉に、澪の胸が小さく鳴った。
「澪さんも、描かせてほしい」
そう言って彼が筆を取る。
光を受けた彼の瞳は、絵筆よりも真剣だった。
息づかいの近さに、澪は心臓が早くなる。
描かれていく自分の姿を見ながら、
“この時間が終わらなければいい”と思ってしまう。
数日後、完成した絵を見に行くと、
彼の部屋はからっぽだった。
壁には、一枚の絵だけが残っている。
それは、澪が見たことのない構図だった。
二色の扉の前に、灰色の髪の男が立ち、
背後には翼のように広がる紫の絵の具。
その翼の端に、澪の横顔が描かれていた。
テーブルの上に、小さなメモが一枚。
「絵を描くたび、色がひとつ減るんだ。
君を描いたら、もう残らなくなった」
翌朝、二色の扉の紫は、ほとんど灰に変わっていた。
澪は指でその境をなぞる。
絵の具のような粉がわずかに指先に付着した。
それは暖かく、そしてすぐに風に溶けて消えた。
——まるで、彼の息がまだそこにあるみたいに。
澪は立ち止まり、空を見上げた。
薄曇りの向こうに、淡い紫がわずかに残っていた。
あの色が消えるとき、きっとまた、誰かが描かれるのだろう。
そして、彼の筆の音が、風の中で静かに響いている気がした。