テラーノベル
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その研究室の窓辺には、いつも冷たい雨のような気配が漂っていた。 大学の理工学部、最奥に位置する「応用物理学・量子音響研究室」。そこは、目に見えない音の波を可視化する研究を行っている場所であり、大学院生の榛名 駆(はるな かける)が人生の大半の時間を費やしている静寂の城だった。 駆には、誰にも言えない秘密があった。 幼い頃から、極度の緊張や感情の昂ぶりを感じると、自分の身体の輪郭が周囲の景色に溶けるように「半透明」になってしまうのだ。「他人の目に映る自分が薄くなる」 その特異体質のせいで、駆は幼少期から目立つことを避け、他者と深い関係を築かないよう、影のように生きてきた。物理の世界に没頭したのも、数式やデータだけは決して自分を裏切らず、常に明確な「輪郭」を持ってそこに存在してくれるからだった。 そんな彼の静かな世界に、ある日、一人の風変わりな女子学生が飛び込んできた。 芸術学部の3年生、敷島 紡(しきしま つむぎ)。彼女は「目に見えない音や感情を、形にして彫刻にしたい」という突飛なアイデアを持ち込み、駆の指導教授を頼ってこの研究室にやってきたのだ。「はじめまして、榛名先輩! 私、先輩の出している音、すごく好きです!」 それが、紡の第一声だった。彼女は大きなスケッチブックを抱え、ひまわりが咲いたような眩しい笑顔で駆を見つめた。 駆は困惑した。音を出しているつもりなどない。しかし紡は、「人にはそれぞれ、その人がまとう空気の振動……つまり『音』があるんです。先輩の音は、とても静かで、ガラスみたいに澄んでいます」と大真面目に言うのだった。 * その日から、二人の奇妙な共同研究が始まった。 駆が音波の振動データを三次元のグラフに変換し、紡がそれを基に粘土や樹脂で立体的な造形物を作っていく。 感情豊かで、考えるより先に身体が動くタイプの紡は、駆とは正反対の人間だった。彼女が研究室にいるだけで、冷徹だった空間がじんわりと温かい色に染まっていく。 ある日の夕方、作業に熱中する紡の横顔を眺めていた駆は、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。彼女のひたむきさ、何に対しても真っ直ぐな瞳。触れれば触れるほど、彼女の存在が駆の心の中で大きくなっていく。「……だめだ」 恋心を自覚した瞬間、激しい恐怖が駆を襲った。 誰かを好きになれば、感情が激しく揺れ動く。そうなれば、自分の身体はどうなってしまうのか。「先輩? どうしたんですか……って、ええっ!?」 紡の悲鳴のような声に、駆は我に返った。 手元を見ると、自分の指先が、PCのキーボードを透過して向こう側のデスクの木目を透かして見せていた。腕も、肩も、まるでガラス細工のように半透明に変色している。「見ないでくれ!」 駆は思わず叫び、ノートPCをひったくるようにして研究室を飛び出した。背後で紡が自分を呼ぶ声が聞こえたが、振り返る勇気はなかった。 * それから一週間、駆は研究室を休み、自宅のワンルームマンションに引きこもった。 鏡を見るたび、自分の輪郭が以前よりもあやふやになっている気がして怖かった。誰かと繋がろうとするから、自分の存在が保てなくなる。やはり自分は、一人で静かに消えていくべき存在なのだと、冷たい絶望が心を支配していった。 しかし、土曜日の夜。激しい雨が窓を叩く中、突然、部屋のインターホンが鳴った。 インターホンのモニターに映っていたのは、濡れた髪を肩に張り付かせ、息を切らせて立つ紡の姿だった。 駆は迷ったが、彼女のあまりの必死さに、観念してドアを開けた。「敷島さん、どうしてここが……」「教授に住所を聞きました! 先輩、なんで急にいなくなっちゃうんですか!」 紡は部屋に踏み込むと、ずぶ濡れのまま、抱えていた大きな荷物を床に置いた。それは、布に包まれた大きな塊だった。「私、先輩の身体が透けちゃう理由なんて分かりません。でも、先輩が『消えちゃいそう』って不安に思ってることは、ずっと気づいていました。だから、作ってきたんです」 紡が布を勢いよく剥ぎ取る。 現れたのは、透明なアクリル樹脂で固められた、複雑で美しい「波」の彫刻だった。それは、駆がこれまでに測定した、あらゆる音波のデータを繋ぎ合わせて作られたものだった。「これ、先輩が私にくれた『音の形』です。先輩がここにいて、私と一緒に笑ったり、悩んだりしてくれた証拠です! 先輩の身体がどれだけ透明になっても、私には先輩の形がはっきり見えます。だから、一人で消えようなんてしないで!」 紡の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。 その涙を見た瞬間、駆の胸の中で、これまで抑え込んできた感情が濁流のように決壊した。「……怖かったんだ」 駆の声が震える。見ると、彼の身体は足元から胸元にかけて、激しく半透明に揺らめいていた。「君を好きになればなるほど、自分が消えてしまいそうで怖かった。君の眩しさに、僕の薄い存在が耐えられない気がして……」「そんなの、関係ありません!」 紡が一歩踏み出し、今にも消え入りそうな駆の両手を、自身の温かい両手でぎゅっと包み込んだ。 彼女の体温が、皮膚を通じて駆の身体へと流れ込んでくる。「先輩が透明になるなら、私がその手をずっと掴んでいます。先輩が自分の輪郭を見失うなら、私が毎日、先輩の名前を呼んで、ここにいるって教え続けます。……だから、私を置いていかないで、駆先輩」 紡の真っ直ぐな告白が、駆の心の奥底に眠っていた「生きたい」という本能を激しく揺さぶった。 消えたくない。この子の隣にいたい。この温もりを、もっと感じていたい。 その強い願いが満ちた瞬間、不思議なことが起きた。 半透明に透き通っていた駆の腕に、ゆっくりと血色が戻り始めたのだ。指先から手のひらへ、そして胸へと、確かな「質量」と「輪郭」が蘇っていく。 駆は、実体を取り戻した自分の手で、紡の手を強く握り返した。「敷島さん……いや、紡ちゃん」 駆は初めて彼女の名前を呼び、彼女の涙をそっと指で拭った。「ありがとう。君のおかげで、僕はやっと、自分の場所に帰ってこれた気がする」 窓の外の雨は、いつの間にか止んでいた。 部屋の明かりに照らされた二人の影は、もうどこも透けることなく、濃く、深く、ひとつのシルエットとなって床に寄り添っていた。
コメント
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うわ、めっちゃ良かった…!「半透明になる」って体質の設定が、心の距離とか孤独感をそのまま形にしたみたいで刺さったわ。駆が好きになればなるほど消えそうになる切なさと、紡が「私には形が見える」って言い切るところで涙腺やられた。最後、手を握り合って輪郭を取り戻す展開、科学的には説明できなくても「繋がりが人を実体化させる」ってテーマが胸に響いた。次回も絶対読む!🔥