テラーノベル
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その高架下の夜は、世界で一番騒がしくて、世界で一番静かだった。 都心から少し外れた私鉄沿線。深夜3時を過ぎると、終電の響きすら消え失せ、残されるのは遠くを走る長距離トラックのロードノイズと、踏切の無機質な監視音だけになる。 フリーランスのウェブデザイナーとして働く深山 蓮(みやま れん)は、その日も重い足取りで深夜のコンビニからの帰り道を歩いていた。連日の激務と、クライアントからの容赦ない修正指示。すり減った心は、まるでノイズだらけの古いテレビのようだった。「あーあ、世界が一瞬でミュートになればいいのに」 そんな独り言を呟きながら高架下の暗がりに差し掛かった時、耳に飛び込んできたのは、およそその場に似つかわしくない、美しく跳ねるような金属の音だった。 カン、カラン、トントン。 驚いて目を凝らすと、街灯の薄暗いオレンジ色の光の中に、一人の女性が立っていた。 彼女は、高架下のコンクリートの壁や、錆びついた進入禁止の看板、果ては放置された空き缶を、ドラムのスティックのようなものでリズミカルに叩いていた。 ただ闇雲に叩いているのではない。高架下に響く独特の反響(エコー)を計算し、まるで一つの打楽器アンサンブルを奏でているようだった。「あ、すみません。うるさかったですか?」 蓮の足音に気づいた彼女が、ピタリと動きを止めて振り返った。 オーバーサイズのパーカーを羽織り、首には大きなヘッドホン。くりりとした猫のような目が、申し訳なさそうに揺れている。「いや、うるさいっていうか……何をしてるのかなと思って」「これ、深夜のサンプリングなんです。私、音響効果の仕事をしていて。この高架下、雨上がりの深夜だけ、すごく良いリバーブ(残響)がかかるんですよ」 彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。名前は雨宮 奏(あまみや かなで)。 それが、不眠症のデザイナーと、夜の音を拾う音響職人の、午前3時の出会いだった。 * それから、蓮の深夜の散歩には、明確な目的ができた。 週に数回、締め切りに追われて頭が爆発しそうになると、彼はあえて午前3時に高架下へと向かった。そこには高確率で、新しい「楽器」を探す奏の姿があった。「蓮さん、聞いてください! 今日の最高傑作です」 奏はそう言うと、高架下の非常階段の鉄格子をスティックで軽くなぞった。シャラシャラと、まるで最高級のウィンドチャイムのような繊細な音が、夜の空気に溶けていく。「すごいな。ただの鉄格子なのに、奏ちゃんが叩くと楽器に見える」「モノにはみんな、その子だけの声があるんです。みんな昼間は忙しくて隠してるけど、夜になると、ちょっとだけ本音の音を聴かせてくれるんですよ」 奏の紡ぐ言葉や、彼女が作り出す風変わりな音楽は、蓮のすり減った心に驚くほど染み渡った。 パソコンの画面と数字、納期に追われる日々の中で、彼はいつの間にか「目の前にある世界の美しさ」を忘れていた。奏の隣で深夜の音を聴いている時間だけが、蓮にとって、唯一ノイズから解放される「静寂」の時間だった。 いつしか蓮は、ファインダー越しに彼女を見るような気持ちで、その横顔を盗み見るようになっていた。 音を真剣に聴くときの、少し尖らせた唇。良い音が撮れたときに、子供のように弾ける笑顔。気づけば、彼の世界の一番深い場所に、彼女の音が鳴り響いていた。 * 冬が近づく11月の終わり。蓮に、過去最大の試練が訪れた。 数ヶ月かけて準備してきた大きなコンペの直前、デザインのデータがサーバーの不具合で完全に破損してしまったのだ。復旧は不可能。提出締め切りは、翌朝の午前9時。 残された時間は一晩。蓮は死に物狂いでキーボードを叩いた。しかし、焦れば焦るほどアイデアは枯渇し、画面の向こうの白いキャンバスは冷徹に彼を拒絶する。「もう無理だ……間に合わない」 午前2時半。限界を迎えた蓮は、逃げ出すように部屋を飛び出し、いつもの高架下へと走った。 冷たい夜気が肺を刺す。高架下にたどり着くと、そこにはいつものように、ハンディレコーダーを掲げた奏がいた。 しかし、今日の蓮の様子が明らかにおかしいことに、彼女はすぐに気づいた。「蓮さん……? どうしたんですか、そんなに青い顔をして」「……データが消えたんだ。明日までに全部作り直さなきゃいけないのに、頭が真っ白で、何も浮かばない。もう、全部投げ出して消えてしまいたいよ」 蓮はコンクリートの壁に背中を預け、ずるずるとその場に座り込んでしまった。情けなくて、涙が出そうだった。 奏は静かにレコーダーをポケットにしまうと、蓮の前にしゃがみ込んだ。「蓮さん。ちょっと耳を澄まして、私の音楽を聴いてくれませんか?」「え……?」 奏は立ち上がると、おもむろに手元にあったスティックを構えた。 そして、高架下のコンクリートを、ゆっくりと叩き始めた。 トントン、トントン。 それは、一定の規則正しいリズムだった。どこかで聞いたことがある、落ち着くテンポ。「これ、何の音か分かりますか?」「いや……分からない」「ふふ、これはね、さっき私が蓮さんの胸に触れたときに聞こえた、蓮さんの心臓の音(テンポ)ですよ。少し早くなってたから、ゆっくりになるように、私のリズムで叩いてます」 奏は微笑みながら、今度は鉄の看板を優しく叩いた。チーン、と澄んだ音が響く。 さらに、風で揺れるビニールシートのガサガサという音、遠くのトラックの重低音。奏はその場にあるすべての「雑音」を拾い上げ、自分の叩くリズムに乗せて、一つの壮大な即興曲へと変えていく。「蓮さん、世界はノイズだらけです。嫌な言葉も、焦りも、不安も、全部うるさい音になって襲ってくる。でもね、それを全部受け止めて、自分だけの音楽に変えちゃえばいいんです」 奏のスティックが、最後に蓮のすぐ横の壁を優しく叩いた。コン、と温かい音が響く。「蓮さんのデザインは、いつもすごく優しい音がします。私は、蓮さんの作る世界が大好きです。だから、迷わないで。あなたの音を、画面にぶつけてきてください」 高架下に響く、彼女の不器用で、だけど世界で一番温かいオーケストラ。 それを聴いているうちに、蓮の頭の中を支配していたドス黒いノイズが、すうっと消えていくのを感じた。代わりに、鮮やかな色彩と、新しいデザインのアイデアが、溢れるように脳裏に浮かび上がってきた。「……ありがとう、奏ちゃん」 蓮は立ち上がり、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。「僕、行ってくる。最高のデザインを作って、コンペに勝ってくるよ。そしたら……」 一瞬、ためらった。けれど、今伝えないと一生後悔する気がした。「そしたら、次の午前3時に、僕のこれからの人生を一緒に奏でてほしいって、告白させてほしい」 奏は驚いたように目を見開いた。それから、街灯の光の中で、顔を真っ赤に染めて、はにかむように微笑んだ。「……気が早いです。でも、最高の音楽を用意して、ここで待ってます」 * 翌朝。蓮の提出したデザインは、コンペで大絶賛を浴び、見事に案件を勝ち取った。 そして数日後の午前3時。 冬の星座が輝く高架下で、二人の影が重なる。電波も数式も届かないその暗がりで、二人の心臓の音だけが、完璧なハーモニーを奏でて重なり合っていた。
コメント
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え〜っ😭💕 第5話、めっちゃ良かったです!! 高架下で奏ちゃんが蓮さんの心臓の音をリズムにして叩くシーン、鳥肌立ちました…「世界はノイズだけど自分だけの音楽に変えればいい」って言葉、めちゃくちゃ染みました🥺✨ しかも告白の「人生を一緒に奏でてほしい」が最高すぎて叫びました!! 夜の音に包まれた2人の世界観が美しすぎる…次も楽しみにしてます🌸🎶