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イチは
柔らかなシーツの上に座っていた。
部屋の灯りは落とされ、
小さなランプだけが
淡く光を落としている。
寝る、という行為が
どういうものだったのか――
もう思い出せない。
目を閉じても
胸はざわついたまま。
静寂が
逆に怖い。
イチは
ただ座り続けていた。
膝の上で
両手をそろえたまま
動かない。
そのとき――
ドアが
やさしくノックされた。
コン、コン。
イチは
ゆっくり顔を上げる。
扉が
隙間をつくり、
暖色の光とともに
人影が現れた。
「まだ起きてるかしら?」
声だけで
安心を連れてくる人――
セリーヌだった。
手には
湯気の立つカップ。
「きっと眠れないと思って」
セリーヌは
ベッドの端に
そっと腰を下ろす。
イチに
ホットミルクの入ったカップを
差し出した。
「熱くないから、ゆっくり飲んでね」
イチは
しばらく
その飲み物を見つめる。
湯気が
静かにゆらいでいた。
――指が動く。
ゆっくりと
両手でカップを受け取った。
温もりが
じわり、と掌に染みる。
イチは
そっと口を近づけた。
一口、
また一口。
――かすかに
肩の力が抜けた。
その変化に
セリーヌは
すぐ気づく。
「そう……よかった」
微笑みながら
自分の胸に手を当て
ほっと息をついた。
「おいしい?」
問いに
イチは
ほんのわずか、
瞬きを一度。
表情は変わらない。
けれど
その沈黙が
“肯定”に見えた。
セリーヌは
嬉しそうに頷く。
「ねえ、イチ。
あなた、とっても綺麗な髪ね」
イチの
長く整った髪を
そっと撫でる。
「誰かに結ってもらっていたの?」
返事はない。
けれど
イチは
ほんの少し
視線を下に揺らした。
――“わからない”。
その仕草が
そう語っているようだった。
セリーヌは
怒らず、困らず、
ただ優しく
続けた。
「大丈夫。
いまは話せなくてもいいの。
きっと、少しずつでいいから」
イチの手が
カップを持ったまま
ゆっくり膝の上に戻る。
ミルクは
少し減っていた。
「エリオットと一緒にいたのよね」
その名を口にしたとき――
イチの肩が
わずかに揺れた。
目が動く。
けれど
言葉はない。
セリーヌは
その小さな反応を
決して見落とさなかった。
「ありがとう。
あの子を埋めてくれて」
イチの指が
布の上で
すこしだけ握られる。
“ありがとう”
――その言葉を見るのも、
聞くのも
きっと初めてだった。
セリーヌは
そっとイチの背を撫でた。
「つらかったわね」
イチは
表情を変えない。
でも
背中は
わずかに震えた。
「話せなくても、
何も言わなくてもいい」
セリーヌの声は
静かに染み渡る。
「あなたがここにいてくれるだけで
それで十分よ」
イチは
ゆっくりと
うつむいた。
涙は出ない。
でも――
胸の奥が
熱くなる。
ランプの光が
二人の影を
ゆったりと揺らした。
――――――――――――――――
扉の外。
ルシアンは
壁に背を預け
静かに耳を澄ませていた。
イチの声は聞こえない。
セリーヌの
優しい声だけが
途切れ途切れに響く。
「……姉さんはすごいな」
低く呟く。
その表情には
安堵と、
言葉にできない痛みが
混ざっていた。
エリアスの姿はない。
彼はすでに
屋敷内の警戒に戻っている。
ルシアンは
扉を見つめたまま
小さく息をつく。
(……今は休ませろ
それが最優先だ)
けれど
彼はまだ知らない。
この夜――
イチの中で
消えかけていた
“安心”という名の炎が
ひそかに灯ったことを。