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東の空が
うっすらと白み始めた頃。
屋敷はまだ眠っている。
ただひとり――
ルシアンだけが
その影の中で動いていた。
黒い外套を肩にかけ、
腰には剣。
今日から調査が始まる。
森へ戻り、
エリオットの痕を辿る。
しかし――
その前に
立ち寄る場所があった。
彼は
廊下を静かに歩き、
ひとつの扉の前で止まった。
昨日、
少女が眠った部屋。
コン……
軽くノックする。
少しの沈黙。
返事はない。
が――
ルシアンは
なぜか“起きている”と
確信していた。
「……入るぞ」
ゆっくり扉を開けると
淡い朝の光の中で
少女――
イチが
ベッドの上に座っていた。
目は開いている。
毛布は整えられ、
乱れがない。
「……起きてたか」
返事はない。
それでも
イチは
彼を見た。
ただ、それだけ。
ルシアンは
少しだけ目を細め
軽く顎で挨拶のように頷く。
「……調子はどうだ」
静かに問いかける。
反応はない。
けれど
イチは瞬きを一度。
(……悪くはない、ってことか?)
解釈が
正しいかどうか
自信はない。
「昨日は……
よく眠れたか?」
口にして
すぐ後悔した。
“眠れるわけがないだろう”
そう思った瞬間、
言葉が喉につかえる。
イチは
小さく首を傾け、
不思議そうに
ルシアンを見つめた。
「あー……」
ルシアンは
咳払いしながら
慌てて言葉を繋ぐ。
「いや、
その……
部屋は寒くなかったかとか
……なんだ、ほら」
言葉を探すほど
焦りが滲む。
イチは
微かにまばたき。
それだけ。
(……ダメだ、通じてねえな)
ルシアンは
額に手を当て
小さく息を吐いた。
「……ええと、
腹は……すいてないか?」
イチは
少しだけ
視線を下に落とした。
空腹なのか
ただ理解できなかったのか
判別がつかない。
ルシアンは
不器用に続ける。
「あとで、
セリーヌが
なんか作ってくれる……
はずだ。
俺は料理は得意じゃない」
――なぜ
そんなことを言ったのか
自分でもわからない。
イチは
また瞬いた。
その目は、
“聞いている”
という意思だけが宿る。
沈黙。
ルシアンは
少し視線を逸らして
落ち着きなく
外套の裾を直した。
「……ああ、ええと…
そうだ」
ようやく言葉を見つけたように
息を吸う。
「俺はこれから
森へ行く。
あんたが
いた場所に」
イチの指が
布を握った。
ほんのわずか。
しかし確かに。
ルシアンは
その変化に気づいたが、
あえて触れなかった。
「大丈夫だ。
今日は……
姉さんがついてる。
……安心して、
ここにいろ」
イチは
ゆっくり――
ほんとうにわずかに
頷いた。
それを “理解” と見なして
いいのかはわからない。
けれど
ルシアンは
その小さな反応に
胸の奥がじんとした。
「……じゃあ、行ってくる」
踵を返したそのとき――
イチの手が
微かに
布を引いたままだった。
――呼び止める
と言うには弱すぎて
気のせい
と言うには
確かすぎる。
ルシアンは
振り返らない。
「……すぐ帰る」
それだけ言って
扉の向こうへ
姿を消した。
扉が
静かに閉まる。
イチは
しばらく
その扉を見つめて
ゆっくりと
視線を落とした。
膝の上に置いた手が
かすかに震える。
胸の奥――
まだ小さな光。
昨夜とも違う
形の温度。