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店を出た後、柚は徒歩数分の場所にある最寄りの駅へ向かうフリをして、徒歩で帰宅する航平と別れた。
そして――
「ああ、こっち。 わざわざゴメンね天野さん」
店の裏にある古びた公園の脇に、黒い車が見えた。 近付くと運転席の窓が開き穏やかな声が聞こえてきて。
「い、いえ……」
ぎこちないであろう柚の声に気がついているのか、いないのか。
「店、終わったかな? 航平帰った?」
「……はい」
当たり前のように、ごく自然な出来事のように。
柚を手招き、微笑む。それは、先ほど人生初の”生で芸能人を見る”という体験を柚にさせたその人。
森優陽だ。
「こっち。 ちょっとだけ話せるかな」
その言葉と同時に助手席側のドアが開かれ彼の目線が、車に入れと訴えた。
……これ、は。
どうすればいいのだろう。 航平の知り合いのようだし更には有名な人だし危険はないだろうと思う。 けれど初めて会った人の車に、突然乗り込むのもどうなのだろうか。
ぐるぐると考えてると小さなため息が聞こえた。急かすようなそれに、柚は慌てて彼を見る。
「大丈夫、君に興味があるわけじゃない。 航平のことで話があるだけ。 すぐに済むよ」
あれ?
と、柚は素直に後ずさりたくなった。
春が過ぎ、夏が近づいてきているであろう、この季節。店で来ている七分袖のシャツに薄手のパーカーを羽織ると少し暑く感じる夜もあるのだが。
(気持ち、今日はちょっと寒い)
いや、店では汗ばんでいた。
気温じゃない。
じゃあなぜかって。さっきまでと彼の態度が違いすぎやしないだろうかと思うから。
しかし、後ずさって逃げるなんてことが通用する雰囲気でもなく、何なら圧さえ感じる。
「天野さん、早く」
やはりその声に多少の刺々しさを感じながらも、
「失礼します」と彼の車の、柚はその助手席へ乗り込んだ。
すると、クスクスと、柚の様子を眺めながらだろうか。
優陽は顔半分を覆った黒いマスクの下で笑い声を上げていた。
「な、なんでしょうか」
「いや、ごめんね。 俺が誰かわかったうえで、こんな反応してくれるのって珍しくて。みーんな喜んでくれるのに、大抵」
「……あはは、すみません。 私つまらない反応しかできない人間みたいで」
当たり障りない返しでやり過ごす。
街頭の少ない店の裏の細い道。対向車がきたなら慌てて立ち退かないと通り抜けられない幅の道路だけど、幸いオフィス街。
この時間になると人通りも車もほとんどない。そんな暗がりでチラリと隣を見る。
ハッキリと見えないのに、彼がやはり一般人離れした空気を持っていることがわかり、視線を泳がせたままどこにも定めることができずにいると。
「ぷっ、ははは……っ、天野さんってつまらないんだ」
数テンポ遅れての反応。
「わ、笑うとこでしたか?」
「はは、ゴメン、笑ってる場合じゃないな。本題に入らないとね」
バカにでもされてるのだろうか? と感じた笑い声はすぐに切り替えられ、ようやく柚が呼び出された理由が明らかになっていきそうだ。