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第1話 二色の隣人
アパート「ひかり荘」の二階、日野澪は段ボールを抱えて階段を上った。
狭い廊下に並ぶ五枚の扉のうち、ひとつだけ色が違っていた。
灰色と紫色が縦に分かれたその扉は、夕暮れの光を吸い込みながら、
まるで深呼吸しているように見えた。
その夜、隣の部屋から猫の鳴き声が聞こえた。
「……ミケ、そっちは行くなって」
声の主は青年だった。
翌朝、澪がゴミを出しに出ると、彼が廊下に立っていた。
髪は柔らかい焦げ茶で、少し寝ぐせが残っている。
灰色のシャツに淡い緑のカーディガンを羽織り、
足元には猫がまとわりついていた。
「隣に越してきたんです」
澪が声をかけると、青年は目を細めて笑った。
「猫、平気?うるさかったら言ってね」
その笑顔にはどこか“さみしさ”があった。
猫を抱き上げた指先が少し震えていたのを、澪は見逃さなかった。
数日後、澪は夜中に目を覚ました。
壁の向こうから、静かな話し声がする。
青年の声と、もうひとつ……猫のような、小さな囁き。
「もう行くの?」
「うん、次の部屋が呼んでる」
澪は息をひそめた。
翌朝、二色の扉の前に、猫の首輪だけが残っていた。
そして扉の片方——紫色の部分が、少しだけ灰色に変わっていた。
澪は鍵を握りしめたまま、その扉を見つめる。
扉の向こうには、もう誰もいないはずなのに、
猫の鳴き声が、かすかに聞こえた。
彼の笑顔が胸の奥に焼きついたまま、
澪は“恋”という言葉を使うのをやめた。
まだ、どこかで彼が生きている気がしたからだ。