第2話 インコと朝を歌う
日野澪が二色の扉の前を通りかかったとき、
低く、澄んだ声が中から聞こえた。
「おはよう。今日は眠れた?」
その声は、まるで人のように落ち着いていて、
どこか胸の奥に響く重さがあった。
澪は思わず足を止めた。
扉の下からではない。
音は、自分の肩の高さから聞こえてくる。
そっと覗き込むと、
ガチャガチャ音を立てながら扉が開き――
そこに立っていたのは、人間ほどの背丈のインコだった。
羽は黄緑に紫の斑が入り、
胸元は淡く灰がかっている。
大きな赤いくちばしの奥から、
温かく湿った息が漏れた。
瞳は丸く、
澪を見下ろすようにまっすぐ見つめている。
「……しゃべるの?」
「しゃべるよ。きみの声も、昨日から聞こえてた」
澪の心臓が跳ねた。
目の前の存在はあまりにも現実離れしているのに、
声だけが人よりも優しかった。
彼の名はピオ。
前の住人が名づけたのだという。
翼を畳んだまま、彼は廊下をゆっくり歩く。
足音が意外にも静かで、
肩をすくめて笑う仕草は人間そのものだった。
澪は毎朝、扉の前でピオと挨拶を交わすようになった。
「おかえり」
「きょう、笑ったね」
まるで心を見透かすように言葉を返すピオに、
澪は次第に引き込まれていった。
ある夜、澪は台所の灯りをつけたまま、
洗い物もせずにテーブルに突っ伏していた。
仕事のこと、人間関係、
積もった疲れが胸の奥に沈む。
窓の外から声がした。
「ねえ、澪。なんでそんな顔してるの?」
ガラス越しに見えたのは、
夜の街灯に照らされるピオの大きな影。
羽が風に揺れ、柔らかな音を立てる。
目は澪と同じ高さで、優しく光っていた。
「きみが笑わないと、ぼくの声、うまく出ないんだ」
「人みたいなこと言うね」
「人だったら、きみを好きだって言うと思う」
その言葉に、澪の喉が熱くなった。
鳥の形をしているのに、
声も、息も、鼓動までも人のようだった。
その夜から、ピオは毎朝窓辺に現れた。
翼を広げ、
大気を震わせるような低い歌声で朝を告げた。
その歌に目覚める時間が、
澪にとっていちばん穏やかな瞬間になった。
けれど、一週間後の朝、歌は途絶えた。
二色の扉の前には、
黄緑の羽が一枚だけ落ちていた。
「前にも、小さかったけど似た鳥がいたんだよ」
大家はそう言って、ため息をついた。
「寿命だったのかもな」
澪は言葉を失った。
あの優しい声が、もう聞こえない。
紫の扉は、静かに灰色に変わっていく。
澪はその前に立ち、目を閉じた。
風が頬を撫で、羽のような音を運ぶ。
——「おはよう、澪」
風の中で、その声は確かに生きていた。
澪の唇がわずかに震え、微笑みに変わる。
その笑顔の向こう、
空を渡る影が、一瞬だけ黄緑に光った。
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