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翌日
午後三時
オフィスの空気は、締め切り間近のピリついた熱気に包まれていた。
パソコンのブルーライトに目がチカチカして、私は小さく伸びをする。
「……ふう。ちょっと休憩」
気分転換に、私はマグカップを持って席を立った。
向かうのは、フロアの隅にある給湯室。
お気に入りのティーバッグを選んでいると、背後で自動ドアが開く音がした。
「お疲れ様。日菜子ちゃん」
聞き慣れた、けれど今は「特別」に響く低い声。
心臓がドキンと跳ねる。
振り返ると、そこにはネクタイを少し緩めた健人さんが立っていた。
「あ……お疲れ様です!」
周囲に誰もいないことを確認して、私はホッと胸をなでおろす。
それでも、いつ誰が入ってくるかわからないスリルで、指先が少し震えた。
健人さんは私の隣に並び、手慣れた手つきでコーヒーマシンのボタンを押す。
「……さっきの会議の資料、良かったよ。分かりやすかった」
「本当ですか? ありがとうございます!萩原さんにそう言っていただけると安心します」
仕事の話をしている間は、ただの上司と部下。
でも、コーヒーが注がれるコポコポという音だけが響く静寂の中、彼がふいっと距離を詰めてきた。
「……ねえ、日菜子ちゃん」
「っ、はい?」
急に名前で呼ばれ、顔を上げると、すぐ目の前に彼の胸板があった。
健人さんは、私の背後にあるカウンターに両手をつき、私を閉じ込めるようにして覗き込んでくる。
「……会社でイチャつけないのが、こんなに辛いとはね」
「そ、それはそうですけど…あ、あの…距離……が近すぎて…っ」
「…まだ慣れない?」
「わ、わたし…萩原さんほど経験ないっていうか…っ、ずっと女子高だったので…男性にも慣れてなくて…っ」
「…なら、一緒に慣れていけばいいよ。まあ…そういうウブな反応も日菜子ちゃんらしくて可愛いけどね」
「かっ、かわ…!って、だ、誰かに聞かれたらどうするんですか…!」
慌てて彼の口を手で塞ごうとしたけれど、逆にその手を大きな手のひらで捕まえられてしまった。
指を絡められ、熱い体温が伝わってくる。
「っ?!え、あ…っ、は、萩原さん…っ?」
いわゆる「恋人繋ぎ」。
「あと何時間で終わる? 今日、このあと空いてるかな」
「…えっと、すみません、今日は少し残業になりそうで───」
「そっか。じゃあ、僕も残るよ」
確信犯的な微笑み。
彼は捕まえた私の手を口元に運び、指先に小さく、羽が触れるようなキスを落とした。
「……!?」
心臓の音が耳元まで響いて、頭が真っ白になりそうだった。
その時、廊下から話し声が近づいてくるのが聞こえた。
「っ、誰か来ます!」
パッと手を離し、私は慌ててマグカップを掴んだ。
健人さんも何事もなかったかのように、出来上がったコーヒーを手に取る。
「……では、その修正案で進めておいてください」
「はい! 承知いたしました!」
入れ違いに入ってきた同僚に「お疲れ様です」と会釈して、私は逃げるように給湯室を後にした。
廊下を歩きながら、繋がれていた指先の熱がいつまでも消えない。
たった十秒の、秘密の接触。
仕事に戻らなきゃいけないのに
頭の中は「残業終わり」への期待で、もういっぱいになっていた。
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