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午後九時を過ぎると
フロアの明かりが半分以上消え、静寂がオフィスを包み込んだ。
カタカタと響く自分のタイピング音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……やっと終わった」
最後の資料を保存し、大きく伸びをした時だった。
背後から聞き慣れた足音が近づいてきて、私の肩に温かい感触が置かれた。
「お疲れ様」
振り返ると、ジャケットを脱いでシャツの袖を捲り上げた健人さんが立っていた。
ネクタイも外され、第一ボタンが開いた鎖骨が、夜の静かなオフィスでは毒薬みたいに目に毒だ。
「萩原さん……まだ残ってたんですか?」
「君を一人で帰すわけないだろう。……こっちにおいで」
彼が促したのは、フロアの奥にある彼のデスク。
誰もいないのをいいことに、彼は自分の椅子に深く腰掛けると
あろうことか私を引き寄せ、自分の膝の上に座らせた。
「っ、ちょ、ちょっと! 萩原さん、ここ会社ですよ!?」
「誰もいない。警備員が回ってくるまで、あと三十分はある」
慌てて逃げようとする私の腰を、彼は大きな腕でがっしりとホールドする。
密着した背中から、彼の力強い鼓動と
洗剤の清潔な香りが混じった体温が伝わってきて、頭がくらくらする。
「……今日一日、ずっと我慢してたんだ。部下として接するのは誇らしいけど、恋人としては……ね」
健人さんは私の肩に顎を乗せ、耳元で低く囁いた。
「…少し、指導もしたかった」
吐息が耳に触れるたび、背筋にゾクゾクとした熱が走る。
彼は私の手を取り、キーボードの上に置かせた。
「さっきの資料、ここ。もう少し言葉を削ったほうが、クライアントに刺さる。……こうだよ」
私の手の上から、彼の長く節くれだった指が重なる。
仕事の指導───名目は「特別講習」のはずなのに
重なる指先の感触が気になって、画面の文字なんて全く頭に入ってこない。
「萩原さん…全然、集中できません……っ」
「それでいい。今は仕事の話、半分しかしてないから」
彼はキーボードから手を離すと、私の首筋にそっと唇を寄せた。
甘くて、痺れるような感覚。
昼間の「完璧な部長」の面影はどこにもない。
そこにあるのは、私を独り占めしようとする一人の男の顔だった。
「日菜子ちゃん……明日は、仕事が終わったらすぐ帰ろう。僕の家で、ゆっくり君を甘やかしたい」
有無を言わせない、強引で優しいお誘い。
私はもう、コクンと頷くことしかできなかった。
深夜のオフィス、二人だけの秘密基地。
パソコンのモニターが放つ青白い光の中で
私たちは初めて「恋人」としての深い夜へと踏み出していく───
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