テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
喫茶店を出る前、目黒は胸元から革張りの上質な紙入れを取り出した。
「康二、ラウールの分も含めて此れで会計をしてくれ。」
「ん?」
差し出された紙入れを、向井は何気なく受け取る。
「中身見てええの?」
「あぁ。札の違いが判らないからな。」
「あ、そっか。ほな、失礼して…」
目黒の言葉に納得した向井は頷き、紙入れを開くと、
「………げっ!?」
思わず素っ頓狂な声が上がった。
「如何した?」
「な、何でもない!」
慌てて紙入れを叩く様に閉じる。だが、遅かった。一度見てしまった中身が脳裏に焼き付いて離れない。額に冷や汗が浮かぶ。
「…目黒さん。此れ…普段から持ち歩いとるん?」
「そうだが…其れが如何した?」
「いや…。」
答える目黒の表情には、疚しさも誇らしさも一切無い。至極当たり前の事を口にした迄の顔を前に、向井は《ほんまに…?》と小さく声を漏らす。
革の手触りは滑らかで、手垢一つ無い紙入れ。其の中に敷き詰められた高額紙幣の束が、向井の掌にずっしりと圧迫感を掛けてくる。
(…こっれは…目黒さんが絶対落とさんように見張らなあかんわ…。)
ひやりとした汗が背筋を伝い、向井の生唾が喉を鳴らす。
「康二?」
微かに身体を強張らせた向井の気配を察し、目黒は不思議そうに首を傾げた。己の持つ資産の価値。其れが此の下町で何れ程の威力を発揮してしまうのか、何の疑問も抱いていない其の無防備な様子が、余計に怖い。
「…なぁ、目黒さん。」
「何だ?」
「此ん中、幾ら有るか解っとる?」
「いや、知らないな。」
「大体でええから!」
食い気味に問い詰める向井の声に、目黒は薄い唇を僅かに引き結び、人差し指を鼻先に当てて暫し真剣に考え込み、本気で記憶を辿るように上を向く。
「確か…ラウールに半月は生活に困らない程度に入れておけとは云ったな。」
「………。」
其の瞬間、すん、と向井の瞳から光が消え、遠い目になった。一先ずは周りを見回し、目黒へと耳打ちする。
「あんな?此の辺だと安い家一軒買えるで。」
「そうなのか?…ラウールに預けた侭の資金も有るのだが。」
追い打ちを掛ける様に、事も無く恐ろしい事実を付け加える元伯爵。向井は眩暈を覚える頭を押さえ、思わず店内の天井を見上げた。
「此れやからボンボンはぁ…っ!」
「元、だな。」
「其処ちゃう!!」
至極真面目な声音で即座に訂正を挟まれ、向井の指摘が喫茶店の一角に虚しく響く。目黒は自分の言葉の何処に不備が有ったのか解らないと云った風に、僅かに眉根を寄せるばかりだ。
「こんなん落としたらほんまに洒落にならんわ。」
「落とさないだろう。」
「そんなん分からんやろ!…もう此処は俺が払っとくわ…。」
危機感が皆無の目黒に呆れ果て乍らも、向井は紙入れを目黒の外套の内側に有る衣嚢へ慎重に押し込んだ。生地の奥深く迄しっかりと収まったのを確認し、ポンポンと上から手を叩いて確かめる。
「…ほんま、此れから大変やな。」
「何がだ?」
「目黒さんの庶民教育。」
「…教育?」
「せや。」
向井は自分の胸をポンと叩き、誇らし気に腰に手を当てて胸を張った。目が見えなくとも、向井の声の張りと鼻高々な空気が目黒にはっきりと伝わる。
「先ずは金の管理からや。」
「分かった。」
「次に普通の買い物。」
「其れは知っている。」
「…ほんまにぃ?」
胡乱な目を向け、語尾を伸ばして疑う向井に対し、目黒は全く揺るがない凛とした声で短く返した。
「当然だ。」
だが、向井は未だ知らない。数時間後、再び全く同じ叫びを街中に響かせる事になるとは。
「此れやからボンボンはぁぁぁ!!」
目黒の事情と共に向井と一緒に住む事になった事を近所周りに報告して少しした頃。夕刻の柔らかい陽光が窓越しに斜めに差し込む時計店には、営業を再開して修理に勤しむ向井と、其の横で静かに佇む目黒の姿が在った。
規則正しい小さな刻の音が響く静かな店内で、目黒は向井から《練習になるやん》と、渡された時計の細かな部品の手触りを、指先の感覚だけで一つ一つ確かめて居た。向井から教わった形と名称を頭の中で一致させ乍ら、滑らかな布で丁寧に磨き上げていく。
其処へ、チリンと涼やかな音を立てて扉が開き、宮舘が足を運んできた。
「康二、目黒さん、此れ。沢山作ったから御裾分け。夕餉の足しにして。」
「え、ほんま?有難う!」
手渡された風呂敷を解けば、塗りの重箱の中に料亭顔負けの煮物や漬物が美しく敷き詰められている。蓋を開けた瞬間に、鰹と昆布の豊かな出汁の芳醇な馨りが鼻腔を擽った。
「うわぁ、めっちゃ美味しそうやん!」
向井が目を輝かせて嬉しそうに重箱を受け取る横で、目黒は店内に漂う其の馨りに静かに感心していた。
「宮舘殿、感謝する。」
「いやいや、そんなに畏まらなくても…此れからご近所さんに為るのですし。」
宮舘が品良く柔らかに笑い、では、と踵を返して帰ろうとした其の時。
「待ってくれ。」
目黒が低く落ち着いた声で呼び止めた。
「何でしょう?」
振り返る宮舘に、目黒は至極真面目な顔で尋ねる。
「代金は幾らだ?」
「「………???」」
一瞬にして店内の時が止まり、向井も宮舘も其の場で固まった侭に目を瞬かせた。二人の気配が不自然にピタリと止まった静けさに、目黒は不思議そうに僅かに首を傾げた。
「手間も食料代も掛かっただろう?ならば相応の賃金を──…」
そう言い乍ら、目黒は極自然な所作で懐の紙入れへすっと手を伸ばそうとした。
其の指先が衣服の生地に触れるより早く、向井は弾かれた様に飛び付き、目黒の手首をガシッと両手で掴んで押し止めた。
「目黒さん。」
「何だ?」
向井の声は半分呆れ、半分は本気の焦りに揺れている。腕を掴まれた目黒は痛がる様子も無く、顔を向井の声がした方へと静かに向けた。其れは、己の行動の何が不都合なのか、本気で判っていなくて。
「お裾分けに金払おうとすな。」
至近距離から諭す向井の声に、目黒は眉根をほんの僅かに寄せた。
「だが、」
「友達から貰うんやからええの!」
ぴしゃりと言い切られた強い言葉に、目黒の動きが止まり、 其の薄い唇が微かに開く。
「…友達、…。」
目黒は妙に真面目な声で、噛み締める様に其の言葉を反芻した。暫しの沈黙の後、すとんと腑に落ちた様に静かに頷く。
「では、何か返礼を、」
「今せんでええねん!」
「………難しいな。」
「何が難しいねん、もう!此れやからボンボンはぁぁあああ!!」
呆れと焦りで頭を抱える向井の様子に、宮舘がとうとう堪えきれず、ふっと肩を揺らして吹き出した。
「あっはは、此れから楽しくなりそうだね。」
「康二がこんなにも賑やかな人間だったとはな。」
「、…あ、えと…御免な、気ぃ悪くした?」
宮舘の前で思わずいつもの調子で素の怒声を上げてしまい、我に返って心配そうに向井が覗き込んできた気配を目黒はしっかりと察し、向井の顔の辺りへと何処か嬉しそうにふっと口元を緩める。
「まさか。俺には其のくらいが丁度良い。」
自分を飾らず、真っ直ぐにぶつかってくる声の熱量。向井の其の賑やかさこそが、今の目黒にとって何より心地良い世界の音であった。
コメント
1件
母ちゃんの尻にひかれとんなぁ😆
#短編集
有栖
192
rn
150
にゅうひん☆
550