テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第九話:混ざり合う三色の妖気
どれほど眠っていたのか。
目が覚めたとき、僕を支配していたあの狂おしいまでの灼熱は、綺麗に凪いでいた。小雪の絶対零度が、玉藻の熾火を中和し、暴走寸前だった僕の霊力を「氷の結晶」へと変えて鎮めたのだ。
身体は驚くほど軽く、重力から解放されたかのような万能感に満ちている。しかし、同時に、昨日まで満員電車に揺られ、上司の顔色を伺っていた「自分」という存在が、数百年前に死んだ他人の記憶のように遠く、無機質なものに感じられた。
僕はふらりと立ち上がり、部屋の隅にある古い姿見の前に立った。
そこに映る自分の姿。僕は、その異形さに言葉を失いながらも、見惚れていた。
「……これが、僕なのか?」
額から突き出した二本の角。それはもはや、単なる黒い突起ではなかった。
根元には玉藻の執着が形を成した、鮮血のような、深く艶やかな「朱」。
中ほどにはお凛の野性が混じり合った、虎の毛皮のように獰猛な「黄金」。
そして先端に向かって、小雪の憐憫が凍りついた、透き通るような「銀白」。
三人のあやかしの妖気が螺旋状に絡み合い、禍々しくも神々しい、三色の紋様を刻み込んでいた。
瞳の奥には黄金の光が渦巻き、肌はもはや人間の血色を失い、薄闇の中で真珠のように冷たく発光している。
僕は、もはや取り返しのつかない境界線を越えてしまった。その実感が、恐怖ではなく、背徳的な悦びとして胸を満たしていく。人間を辞めることは、これほどまでに自由なことだったのか。
――その時だった。
「おい! 誰かいないのか! 隠れてないでさっさと出てこい!」
静まり返った「朧月館」の静寂を、下品で傲慢な怒鳴り声が切り裂いた。
宿の玄関先から響いてくるその声。鼓膜にこびりつくような不快な周波数。僕は記憶の底にある、最も忌まわしい名前を思い出した。
佐々木。僕が現世で勤めていたブラック企業の、直属の上司。僕を精神の限界まで追い詰め、この山奥へ逃げ込むきっかけを作った元凶だ。
「無断欠勤してこんな温泉宿で油売ってるとはいい身分だな! 会社にどれだけの損害を与えたと思っている! さっさと戻って働け、この役立たずが!」
ドンドンドンドンドンドンドン、と不躾に門を叩く音が、静かな宿の結界を不協和音のように揺らす。
普通、人間はこの宿を見つけることすらできない。だが、佐々木の執念深さと、「部下を支配下に置き続けたい」というどす黒い悪意が、境界の揺らぎを無理やりこじ開けてしまったらしい。
僕は無意識に、拳を握りしめた。
以前の僕なら、あの声を聞くだけで動悸が激しくなり、這いつくばって謝罪していただろう。だが、今の僕の胸にあるのは、北極の海のように冷え切った殺意と、神が虫けらを見下ろすような圧倒的な優越感だった。
「……うるさいな。静かにしてくれと言ったはずだ」
僕は吸い寄せられるように、玄関へと向かった。
廊下を歩くたび、僕の角から三色の妖気が火花となって散り、畳を焦がし、あるいは凍らせ、時には獣の爪痕のような亀裂を刻んでいく。
玄関の重い扉を、僕は指一本触れずに妖力だけで跳ね上げた。
そこには、顔を真っ赤にして、安物のスーツを汗で濡らした佐々木が立っていた。手には分厚い「損害賠償請求」と書かれた書類を握りしめている。
「やっと出てきたか! 貴様、その格好は何だ? 趣味の悪いコスプレか? いいから今すぐ――」
佐々木の声が、不自然に途切れた。
僕を見上げた彼の瞳に、初めて「理解不能なものへの恐怖」が浮かぶ。
彼が見ているのは、かつての弱々しい部下ではない。三色の角を戴き、人間を超越した異形の「怪物」だ。
「……あ、……ひっ……。お、前……なんだ、その目は……その、角は……」
「佐々木さん。……ここは、貴方のような汚い人間が、土足で踏み込んでいい場所じゃないんですよ」
僕がそっと一歩踏み出しただけで、周囲の空気が激変した。
玉藻の熱が佐々木の肌を焼き、お凛の殺気が彼を金縛りにし、小雪の冷気が彼の足元を畳ごと凍りつかせる。
「う、わあああああ! くるな、くるな!」
佐々木は腰を抜かし、情けなく尻餅をついた。
その醜悪な姿を見下ろしながら、僕は自分の中に眠る力が、獲物を求めて歓喜に震えるのを感じていた。
僕は佐々木の喉元に手を伸ばす。その指先からは、銀色の冷気と朱色の炎が混じり合った、逃げ場のない妖気が立ち上っていた。
「……助け……、助けてくれ……。悪かった、もう言わない、何でもするから……!」
「助ける? ……そうですね。貴方のその腐った魂、僕が美味しく『浄化』してあげましょうか。ちょうど、少しお腹が空いていたところなんです」
僕の角が、不気味に、そして美しく輝きを増した。
その時、僕の背後から、クスクスと楽しげな、しかし背筋を凍らせる笑い声が重なった。
「おやおや。妾のつがいを虐めていた不届き者は、この男かえ? 随分と、不味そうな魂じゃのう」
玉藻だ。彼女が、お凛と小雪を従え、闇の中から姿を現す。
三人のあやかしに見守られながら、僕は現世との繋がりを完全に断つため、ゆっくりと佐々木に向かって掌をかざした。
僕の中に、彼女たち三人の力が渦巻いている。
今、この瞬間、僕は本当の意味で「朧月館」のあるじになろうとしていた。